夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第5回》〜親父の夢〜

文・夢枕 獏

 親父の夢を見た。
 二年前にガンで亡くなってから、これまで親父の夢など見たことはなかった──というよりも、おそらく親父の夢を見たというのは、生まれて初めてのことではないかと思う。
 場所は、時おりぼくが夢の中でゆく川である。
 ぼくの住んでいる小田原のどこかにある川なのだが、具体的にそれがどこかというと、非常に曖昧なのである。
 醒めた状態で思えば、静岡県の柿田川と、北海道の忠類川と、そして子供の頃よくあそびに行っていた地元の酒匂川の支流がモデルになっているらしいのだが、美しい綺麗な川だ。
 そこで魚をとっている。
 釣っているのではなく、マチアミという網で魚をとっているのである。テレビの撮影らしく、スタッフがカメラを持って川に入っている。
 親父がそれを横で見物しているのである。
 これが、何だか不思議な気分なのである。
 親父はぼくに釣りを教えてくれた人間であり、釣りや魚に関してはなかなかうるさいところがある。息子が、魚と川のことでテレビに出たりするのはいいが、何か失敗して恥をかいたりはしないだろうなあ、と、そういう眼で見ているのである。まあ、弟子の一本立ちする姿を、横で眺めている師匠といった役所のようでもある。
 撮影が終わって、パーティーになった。
 親父もいる。
 にこにこして、酒など飲んでいる。
 しかし、どうも、何か妙である。親父の顔は、こんなにふっくらしていなかったなあ。もっと痩せてたんじゃあなかったのかなあ。
 テレビのスタッフも、誰も親父の存在に気づいていない。
 「ねえ、この人知ってる?」
 とスタッフに声をかける。
 「誰?」
 「この人」
 振り返ったら、もうそこに親父の姿はなくて、むこうの方へ向かって歩いてゆく背中が見えているだけである。
 「親父───」
 と追っかけて行ったら、親父が大きな柱のむこうにまわり込んで、その姿が見えなくなってしまった。柱のところまで行ってみたらその陰にいるはずの親父の姿はない。
 そこで、ようやく、ぼくは、親父がもう死んでいたことに気づくのである。
 ふっくらしている顔は、親父が元気な頃のもので、痩せていたのは死ぬ間際のことだ。
 眼が覚めてからも、夢の記憶は鮮明で、ぼくが妙な気分で親父を見つめた時、
 「なんだおまえ、もう気がついちゃったの?」
 困ったような照れたような表情をした親父の顔は、まだ覚えているのである。
 起きて、すぐにカミさんにこのことを話したら、
 「嬉しかったでしょう」
 とすかさず言った。
 「死んだお父さんが夢に出てくるのって、ほんとに嬉しいのよねえ」
 カミさんも、父親を(ぼくにとっては義理の父)、ぼくの父が亡くなるのとあまりかわらない時期に亡くしており、時おり亡くなった父親の夢を見ては、
 「嬉しかった」
 と話していたので、ああ、あれはこのことだったかとぼくもようやくそれを実感できたのである。
 死んだ親父の夢を見るというのは、ほんとうになんだか嬉しいものである。
 夢の話をもう少ししておこう。
 飛ぶ夢と、追われる夢をよく見る。
 飛ぶ夢の場合は、ほぼ90パーセント以上の確率で、間違いなく落ちる。
 ・飛ぶ・というよりは・泳ぐ・感覚に近く、宙で平泳ぎのごとくに手足を動かして飛ぶ。これがもう、必ず落ちる。
 飛んでいる最中に、あ、これは夢だなとわかる。夢なら必ず落ちることになっているから、落ちるだろうと思う。いや、落ちると思ってしまったからこそ落ちるのだ、夢なら落ちると思わなければ落ちるわけはない、落ちないと思えばいいのだ。しかし、もう落ちると思ってしまったことは消しようがない、落ちないと思おうとすることは、落ちると思うことと同じではないのか、ほら、もう落ちかけているではないか、わあ、た、た、たすけてくれえ───かようなぐあいに落ちてしまうのである。
 追われた時も同じだ。
 走って逃げている。追ってくるのはいつも色々だが、共通しているのは、殺しても死なない相手である。
 逃げながら、あの手この手で何度も何度も危機を脱出し、相手はもう、肉の塊のごとくにぐちゃぐちゃの血まみれになっていてるのだが、それでも追ってくるのである。
 追ってくるのが、怪物というわけではなく、□□さんや、○○さんなどという、日常的にぼくの知っている人であるケースも多く、走って逃げる時には、ぼくの速度は哀しいくらいにスローモーでスピードがあがらない。
 最後には、ついに追いつかれて───
 ああおそろしい。
 夢とわかっていてもコワいのである。
 自由に何でもできることの代名詞として、・夢・という言葉が使われるケースが多いが、ぼくにとって、夢というのは、哀しいくらい自由にならないものの代名詞である。
 夢の中で会った女の子といいところまではいくのだが、必ず邪魔が入ってだめ。
 入るトイレは、いつも壁がないかドアがこわれている。
 魚は、必ず釣れない。
 飛べば落ちる。
 追われればつかまる。
 親父の夢を見て、なんだか嬉しかったというのは、ほんとにめったにないことだったのである。


(c)Digital Adventure.Inc.