沖縄に行ってきた。
『大江戸恐竜伝』という小説の取材である。
恐竜が江戸の街に出現して、あばれまわる話なのだが、話のつごう上、江戸時代まで恐竜が人知れず生きていたという設定をしなければならず、それを南の島ということにしたのである。
沖縄───つまり琉球の近くの海域にある島があり、そこにいる恐竜を、平賀源内が江戸まで運んでくる。その恐竜が見世物小屋から逃げ出して───という筋立てである。
何で沖縄なのか。
何しろ、江戸の頃まで、ほとんど中央には知られなかった島という設定であるので、伊豆とか、瀬戸内海とかではあまりに近すぎて、何でこれまで知られなかったのかという疑問がいくら小説とはいえ、残ってしまうのである。かといって、北海道あたりでは、寒くて恐竜が死んでしまうであろう。
そこで、南の島ということになったのである。
さらに書いておけば、ただ南の島というだけではもの足りない。その島には、やはり人が住んでいるという方が、話がずっとおもしろくなる。だからといって、はいその島に恐竜と人が一緒に住んでおりました、と簡単に書いてしまうわけにもいかない。何しろ、これまでの沖縄史には、そういう人々のことが書かれてはいないのである。恐竜と共にその島に住む人々もまた、外の世界とは没交渉で生活していたという設定でないと、話が不自然になってしまう。
これまでの琉球古代史の記録には記されていないような遺跡がどこかにあれば一番いいのだがとそう思っていたら、それがあったのである。
それが
・沖縄海底遺跡・
と呼ばれてるものであったのである。
テレビでも何度か放映され、新聞や雑誌にも紹介され、本にもなっているのでご存知の方もいるかもしれない。
南西諸島で最も台湾に近い島、与那国島は新川鼻(あらかわばな)の南の沖合に100メートルの海底で発見された・石造遺構・そのひとつである。
水深二十五メートルほどの海底から巨大石造建築物と見えるこの・遺石・が立ちあがっているのである。
城とも神殿とも見えるこの巨石の大きさは、高さ二〇メートル、長さ二〇〇メートルに、幅一四〇メートルもある。
これは、一九八六年に新嵩喜八郎氏によって・遺跡ポイント・と命名されている。
この他にも、南西諸島のあちこちの海域で、ストーン・サークルを思わせる石の並びや、遺跡を思わせるものが次々と発見されているのである。
七〇〇〇年から八〇〇〇年くらい前までは、そのあたりの海域の海底が海面より上にあったことはほぼ間違いがなく、一万年以上昔のウルム氷期には、海水面は現在よりもずっと低く、日本列島と大陸とが地続きであったことは周知の事実である。
地球の長い歴史上、海水面の高さが常に一定であったことはない。
海水面は、常に様々な理由で上がったり下がったりしているのであり、現在は、地球温暖化現象によって、極地の氷が溶けて海水面は上昇を続けている最中である。さらには地殻変動によって、陸自体が上昇したり下降したりもしている。
さらに、最近の研究では、四〇〇〇年ほど前には、この海域の水深四〇メートルあたりまでが海面より上にあったのではないかということまでわかってきているのである。
これは、なんだかおもしろいぞと、鼻がぴくぴくしてきたので、現地取材に行くことにしたのである。
琉球大学の木村政昭氏が、この海底遺跡の調査をずっと続けており、これはぜひとも木村先生の話をうかがわねばならず、もうひとつ書いておけば、沖縄というのは、たいへんに楽しい海釣りができるところでもあるのである。
この話をしたら、某アウトドア雑誌の編集長が、ぜひ別の仕事で相乗りしたいというので、当初はひとりで行くつもりあったのだが、結局、編集者、カメラマン、ライターの方々が、このツアーに参加することになってしまったのであった。
打ち合わせの時に、何やらもじもじとしていたのが編集長のK氏であった。
K氏は、釣りがメシよりも女のコよりも好きで、いつどこへ仕事に行く時でも釣り竿を持っていく。
K氏は言った。
「いや、沖縄いいですねえ。楽しい釣りができますねえ」
「そうですねえ、できますねえ」
「ボクもねえ、いそがしいんですけどねえ」
K氏はもじもじしておられるのである。
「そうでしょうねえ」
「バクさんもいきなり初対面の人たちと一緒に、沖縄ロケというのもやりにくんじゃないかなあ」
「そうですねえ」
「ほんとは、いそがしくて、出られないんだけど、バクさんがどうしてもということであれば、ボクもねえ、沖縄にねえ──」
ここまで言われたら、ぼくもK氏の願いに応えねばならない。
「ぼくも不安だなア。初めて会う人もいるんだと、誰かあいだをとりもってくれる人が欲しいなあア」
「そうでしょう」
「いやあ、来てくださいよ。いそがしいと思いますが、ぼくのために来てくださいよ」
「じゃ、しかたないから、ボク、行こうかなア」
「ぜひ」
「では行きましょう」
こうして、編集長のK氏も行くことになり、結局、我々は男六人のツアーとなってしまったのであった。
(次回に続く)