夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第10回》〜凄いぞ吉田〜

文・夢枕 獏

  スポーツ新聞で、すでに一度書いているのだが、そちらはあまりにも字数が少なかったので、思っていることの半分も書けなかった。
 ここで、あらためて書いておきたい。
 二〇〇二年八月二十八日に、国立競技場で行われた格闘技イベント・Dyamite!・についてである。もう少し正確に書くなら、吉田秀彦対ホイス・グレイシーの試合について、書いておきたい。
 この夜のイベントは、まるで夢のごとくに素晴らしいものであった。格闘技に限らず、めったに出会えるイベントではない。
 五〇年前、ブラジルで木村政彦と闘ったエリオ・グレイシーの姿をリング上で見ることができたのもよかった。夜の空から、猪木がパラシュートで降りてくる───これもよかった。この時、自然発生的に天に向かっておこった猪木コールもよかった。
 野外という開放された空間で、これだけ密度の濃い闘いがやれるのか。
 全部で八試合。
 それぞれに語ることはあるのだが、ここは吉田対ホイスにこだわりたい。
 この試合のテーマのひとつは、この十年間の総合格闘技運動とは何であったのか、ということであった。
 総合格闘技と呼ばれる運動が、いったいいつから始まったのかということについては、色々な考え方がある。大道塾が仙台において産声をあげた時でもいいし、UWFというプロレス団体が誕生した時でもいい。いや、それよりもっと昔に、前田光世がアメリカに渡った明治時代を、その始まりとしてもいいのだが、ここは、わかりやすく、一九九三年アメリカにおいて、初めてのバーリ・トゥード──アルティメット大会が開催されたのを始まりとしておきたい。
 それから、およそ十年。
 総合格闘技を観続けてきて、我々はひとつの結論を得たはずであった。
 ボクサーでは、総合の試合に勝てない。
 レスラーでは、総合の試合に勝てない。
 空手家では、総合の試合に勝てない。
 キックボクサーでも、総合の試合に勝てない。
 そして、柔術家であっても、総合の試合には勝てない。
 総合格闘技の試合、バーリ・トゥードの試合で勝つのは、総合格闘家である───これが、この十年間の結論であったはずだ。
 打撃でも寝技でも、何を自分の得意としてもいいのだが、打撃系の選手は組み技への対処法を学び、組み技系の選手は打撃への対処法を学ぶ───ようするに総合格闘家となることが、総合の試合で勝つための一番の近道であるということが、この十年間で認知されたのである。
 こうして、これまでの格闘技になかったまったく新しいジャンルとして、総合格闘技はこの社会にポジションを持ったのである。
 言うなればその総合格闘技の代表として、ホイスが吉田と闘うことになったわけである。本人は別に代表とは思っていないだろうが、ぼくの感覚としては、そういう部分が多分に存在するホイスの出場であったのである。
 方や、グレイシー柔術のホイス。
 方や、オリンピック柔道の金メダリスト。
 もしも、ホイスが吉田に負けるようなことにでもなれば、我々のこの十年間は何であったのかということになってしまう。
 総合の試合で勝つのには、何も総合格闘家になぞならなくてよい。強い柔道家が、そのまま強い総合格闘家ということになってしまうではないか。
 かといって、吉田がホイスに負けてしまっていいのか。
 我々は──少なくともぼくは、まだ柔道や柔道家に幻想を持っている。
 本当に強い柔道家が、総合の試合に出たら、ほとんど柔道の技術だけで勝ってしまうのではないか。柔道にはまだまだ底の深いものがあるのではないか。
 「ヒクソンより寝技の強い柔道家はいっぱいいるよ」
 この十年間、何度となく関係者のそういう言葉が活字になったりもしている。
 そういう柔道家が現れて、柔道の技でばったばったと、世界の強いバーリ・トゥーダーを倒してもらいたい──そうも思ってきたのである。
 もしかしたら、吉田がそういう選手ではないのか。
 もとより、闘いは個人の素質対個人の素質という面を多く持つ。単純に、柔道対柔術などとくくれるものではない。さらに、今回は、立っている時は顔面へのパンチなしという変則的な総合ルールである。これをもって、常の総合の試合と一緒にはできない。
 それがわかっていながら、なお、観る方は様々なテーマをこの試合に与え、心を千々に乱れさせ、あれこれ考えてしまうものなのである。
 で、試合だ。
 試合はほぼ圧倒的と言ってもいい展開で、吉田の勝ちとなった。
 試合が始まった途端、組みあってすぐにホイスが引き込んで自ら下になった。
 下になって下から攻撃をする──これは、ブラジリアン柔術の基本の攻め方であり、下になっているからといって、必ずしも不利な状態というワケではない。三角締めを始めとして、下からねらえる技は幾つもある。
 しかし、そのためにはホイスはまず吉田を倒さねばならない。だが、吉田は、倒れない。二本足で立ったまま、上からホイスを締めにいこうとする。
 倒されない───これは、柔道で言えば基本である。
 その柔道の倒されない力というのが、どれほどのものかというのを吉田が見せてくれた。
 横四方から、上四方へ入り、そのまま上になった吉田がホイスを袖車で締めた。実際にどうであったのかというのは、映像でもビデオでもわからないのだが、かたちとしては完全に入っている。
 これでレフェリーが、吉田の勝ちとしてしまったのだが、これにホイスが抗議した。
 「まだ自分は、タップもしてないし落ちてもいない。ルールでは、どちらかがタップするか、ノックアウトされるまでやるはずではなかったのか」
 ルール上は、ホイスの抗議は正当なものといってよい。ルール上は、まだあの時点では勝ち負けは決められない。しかし、勝ち負けより、もっと重要などちらが強いかは、その時点ではっきり見えてしまったような気がする。
 吉田の強さに脱帽。
 総合格闘技界が、楽しみなことになってきた。


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