夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第14回》「最強とは何か」 〜ボブ・サップから中国拳法へ〜 その2

文・夢枕 獏

 重量級──つまりこれは、体重制限のない唯一の階級なのであった。
 だから、たとえばここでは体重一〇〇キロの選手と一七〇キロの選手との試合が成立してしまうのである。
 体重差七〇キロ。
 なんということか。
 体重一〇〇キロ以上あるノゲイラとボブ・サップの体重差は、人間ひとり分ほどもあるのである。
 しかも、ボブ・サップの肉の重さは、脂肪ではなく筋肉なのだ。
 体重の重い人間は動けない───昔からそう言われてきた。
 しかし、ここに、動くことのできる体重一七〇キロの肉体が出現してしまったのである。このままでは、世界で一番強いのは、技術ではなく、フットボールをやっていたでかい肉体───そういう結論になってしまいそうである。
 これでは困る。
 ただ試合を見て楽しんでいる分にはいいのだが、格闘をネタに小説を書いている人間としては、それでは困るのである。
 ボブ・サップとの試合で、ノゲイラは、このでかい男に勝つには勝ったのだが、次にやったら危ない───そう思える試合であった。ボブ・サップが、もう少し、関節からの逃げ方を覚えたら、もうプライドルールで勝てる人間はいなくなってしまうのではないか。
 そういう時に、友人の作家である高千穂遙から連絡があった。
 「今度、中国拳法の蘇東成老師のセミナーがあるので来ませんか」
 というのである。
 「獏さんも格闘技をテーマにした小説を書いているなら一度は体験してみるといいですよ。寸勁(すんけい)で飛ばされてみませんか」
 蘇東成老師は、台北に生まれた方で、年齢はまだ四〇代後半である。
 ぼくより若い。
 にもかかわらず老師というのはおかしいのではないかという声が聴こえてきそうだが、老師というのは・先生・というほどの意味であり、・老人の先生・という意味ではない。
 蘇老師の名前は、以前からぼくもよく耳にしており、十六歳の時に台北市国術擂台賽(らいたいさい)に出場して準優勝───次の出場からは優勝を何度もしているという、実践中国拳法の達人である。
 実は、ぼくも前からビデオを持っており、表演だけに終わらない実戦中国拳法の実践者として、蘇老師は以前から気になっていた方であった。
 「では、ぜひうかがわせて下さい」
 ということになって、都内某所のスポーツセンターにある、セミナー会場に出かけて行ったのであった。
 実は、エラそうなことを書いているわりには、白状しておけば、ぼくの武術体験というのは、極めて少ない。
 ある空手道場に、取材のために一日入門したことと、柔術の中井選手にお願いして、一度締めてもらって落としていただいたことがあるだけである。
 ああ、そうだ。まだあった。
 UWF時代の藤原選手に、関節技をかけられて、実に痛い目にあったことがあったが、その三回くらいなのである。
 中学生の頃に、一度だけ柔道の道場に行って、試合めいたことをしたことがあったが、これはやったうちに入らない。
 当日、四〇人くらいの受講生と一緒にセミナーを受けたのだが、蘇老師の技は速く、実践的であり、眼や鼻に指をひっかけて実に上手に相手をコントロールして、倒す。
 型に近いものであり、本気で傷つけたりはしないものの、なかなか恐い。相手をするのは、お弟子さんであり、参加者も何人か相手をしてもらっていたが、参加者には手ごころを加えてくれるのである。
 漫画家のいしかわじゅん先生や、ぼくが誘った落語家の林家恭いち師匠も一緒である。
 セミナーが中ほどまできたかという時───
 「獏さん、ちょっと」
 高千穂遙が、ぼくを呼ぶのである。
 「いい機会だから、老師の寸勁を受けてみてはどうですか」
 いよいよその時が来てしまったのである。
 寸勁というのは、相手の身体に手を触れた状態からくり出す打撃のことと思ってもらっていい。
 普通、打撃というのは、拳なら拳を、相手から離れた場所から動かして、相手の肉体に当てるという技である。
 これを、相手の肉体に手が触れている状態からスタートして、そのまま相手にダメージを与えてしまうのが寸勁である。
 ブルース・リーなどは、これをワン・インチ・パンチと呼んでいた。
 ものの本では、幻の技などと紹介されたりしているが、実際に存在する技なのである。神秘的な響きがあるが、きちんとした力学にのっとった技であり、当てれば本当に効く。
 そのくらいの知識は知っていたのだが、実際に当てられるのは初めてである。
 蘇老師は、ぼくの前に立つと、右掌を手刀の状態にして、指先をぼくの右胸にあてた。
 次の瞬間、どん、という衝撃を受けて、ぼくはみごとに後ろに飛ばされていた。後ろにいた人が支えてくれなかったら、仰向けにぶっ倒れていたところであった。
 前に踏み出す力や、体重の移動───人間の肉体の持つ色々な動きを、掌に載せて相手を打つ。
 かなり手加減をしていただいたのだが、それでも凄い衝撃であった。
 見れば、高千穂遙が嬉しそうににこにこしているではないか。
 確かに凄かった。
 リングで使えそうな技術もいくつかあって、中国拳法、おそるべし、これがぼくの実感である。
 だれか、寸勁で、ボブ・サップを飛ばすやつはいないか。


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