今、カナダのユーコンテリトリーのホワイトホースにいる。
現地時間で、九月五日の夜十一時一〇分。
数時間前に、カヌーの川旅から帰ってきて、ホテルのシャワーを浴び、食事をすませて部屋にもどってきたばかりなのである。
九泊十日の川旅───十日間川の上にいてカヌーをこぎ、夜はグリズリーの出没する川岸にキャンプをして帰ってきたのである。
陽に焼けた。
少しの贅肉がとれ、少しの筋肉がついた。
五十二歳。
三〇代の頃の体力はないが、歳を経ていくらかずるくなって、そのずるさで体力をカバーできるようになった。
多少は汚れたが、少しは愛敬も残っている五〇代である。
日本を出てから十二日───この間、何も原稿を書いていない。
こんなこと、十年ぶりである。
本来なら、三日も原稿を書いていないと、禁断症状が出て、ペンを持ち、原稿用紙に文字を書いてしまう。
半分病気、そういう体質になってしまったのである。
それが、十日以上も原稿を書かないなんて。
今、ホテルの部屋に入り、ただ独りでこの原稿を書き出したところなのである。
三日後には日本にもどる──多少のリハビリのつもりで、旅の後最初に書くものに、この原稿を選んだのである。
筋肉は、使えば太くなる。
使わねば、落ちる。
脳も筋肉と同じだ。
原稿を書く脳の筋肉が、しばらく使わないでいると、いくらかは弱くなるものらしい。
その弱くなった脳筋を、この原稿を書くことによって、活性化させねばならない。
では、そもそものこの旅のいきさつからだ。
いきさつと言っても、深い事情があったわけでなく、
「今年の夏に、ユーコン行こうよ」
カヌーイストの、野田知佑さんに誘われたのである。
正確に言うなら、ユーコン川の支流のビッグサーモンリバーをカヌーで下らないかとお誘いを受けたのである。
「凄いぞう。でかいキングサーモンが、わんさかのぼってくるから、それを釣り放題だぜ───」
こういう殺し文句を言われては、これはもう行くしかない。
「行きます行きます。キングサーモン大好き───」
行くことになってしまったのである。
実は、野田さんとは、何度も海外の川旅をしている。
ニュージーランドには、四回ほど一緒に行って、オーストラリア、タスマニアにも行ってモンゴルの川には二度行った。
アラスカ、カナダの川が一番多く、一番最初が、十七年くらい前のユーコン川であった。
この時は、ユーコン川の下流部を下り、次がフランシスレイクフランシスリバー。
次がユーコン支流のテスリンリバーであり、次がコバック川。
そして、今回が、すでに書いたが、ビッグサーモンリバーであったのである。
ユーコン川は、カナダ北部のユーコンテリトリーの山の中に源流があり、カナダを流れ、アラスカを抜け、ベーリング海へ注ぐ、長さ三〇〇〇キロを超える大河である。
すぐ先がもう北極圏であり、冬には川の全てが凍りつく。
グリズリー、ブラックベア、ムース、ビーバー───等々、野生動物の宝庫であり、人口が少ない。
ユーコンテリトリーで言えば、日本より広い面積に、人口が三万人である。
人より熊の数の方が多い。
「今回は、ガイドが一緒に行くから、熊も怖くないんだ。以前は、我々がライフルを持って行ったけど、今度はガイドがライフルを持って行くから──」
それは心強いと思って、ぼくは半年ほど前から、いそいそと原稿のやりくりをしはじめ、今回の旅になるべく原稿を持ち込まないようにしたのである。
いずれにしろ、覚悟が決まっている。
もしも、間に合わなくたって、なあに、川へ出てしまえば電話もFAXもない。
なるようにしかならないのである。
今回は噺家の林家彦いち師匠が一緒である。
彦いちさんは、アウトドア落語家であり、古典も新作もやり、極真空手をやっていて、しかも柔道の有段者。
知り合ったのは、何年も前であり、場所は長良川の川原である。
長良川の河口堰建設反対運動の集会があって、ぼくはそこで鮎と釣りの話をした。
その時に、彦いちさんも来ていてアウトドア落語をそこでやったりしたのである。
楽屋をかねたテントで会うなり、
「最近、格闘技は観に行ってるんですか?」
彦いちさんの最初の台詞がこれであった。
格闘技の話で盛りあがり、最近ではよく一緒にK-1やPRIDEなどの格闘技を観に行っている仲なのである。
彼が、真打ちになった時に、ぼくは、キックミットをプレゼントした。
彼はさっそく、このキックミットを若手に持たせ、舞台の上でこれを蹴ってみせたりしたのである。
「もし、グリズリーが出たら、その蹴りと拳で我々のかわりに闘うんだよ」
「極真では、ウィリーもやってますから、まかせといて下さい」
彦いち師匠は、心強くうなずくのであった。
ウィリーというのは、昔、アントニオ猪木と闘ったこともある、極真空手の黒人選手である。
このウィリーは、なんと、熊とも闘っており、ニックネームは・熊殺し・である。
「頼むよ」
「押忍」
こうして、八月二十六日に、夢枕獏と林家彦いちは、成田空港で待ち合わせをしたのである。
野田さんは、半月先行して、ホワイトホースに入っており、我々は現地で合流することになっていたのである。
(以下次号)