最初の晩、実は、ぼくはほとんど眠れなかった。
小さなテントの中で寝袋にくるまり、眼を閉じて、眠れぬまま、ずっと深夜の森の物音を聴いていたのである。
夜の森は、様々な物音がする。
小さな小動物の疾る音。
ミンク、ビーバー、リス──そういった類の小動物が、水辺に近い森の中を動くのである。かさこそと枯れ葉を踏み、繁みを音をたててくぐってゆく音がする。
そして、川の音。
サーモンの跳ねるどぼんという太い音もする。
この最初の晩に、オオカミの遠吠えも聴いた。
野田さんも彦いちさんも、森の中の思いおもいの場所にテントを張っていて、そこからそれぞれの鼾も聴こえてくる。
場合によっては、これがどうしても動物の息づかいに聴こえてならない時もある。
そして、ふくろうの声。
なんだかよくわからない、薄気味悪い動物の呻き声──翌朝、これはムースの声とわかるのだが、テントで耳にしている時は、これがわからず実に不気味なのである。
そして、カナダガンの群。
カナダガンは、朝方近く、何度も何度も水辺にやってきては、羽音と水音をたて、せわしなく何度も鳴きあげていく。
ひと晩中、森が騒いでいるのである。
これらの物音、声、息づかいが、いずれも最初は、
・グリズリーのものではないか・
と思ってしまうのである。
グリズリーというのは、巨大な灰色熊だ。
おそらく、地上の動物の中では一番強いのではないかとぼくは思っている。
ライオンよりも、虎よりも、オオカミよりも。
日本にいるヒグマよりもずっと巨大で、ブラックベアーを一撃で殺して食べてしまうそうである。
みしり、
ぱきっ、
と、森の中に落ちている小枝の折れる音や、繁みを何かの動物が巨大な身体でこすりあげていく音を聴くと、
・グリズリーが来た・
と思ってしまうのである。
もちろん、テントの中から視認できるわけはない。
耳だけで森を視ているのである。
森を聴いているのである。
「熊は人を襲わない」
と、したり顔でまことしやかに言う人物がいる。
「人と熊が出会えば、熊の方が逃げてゆくから」
「なにしろ、熊のテリトリーの中に人が入ってゆくわけだから、人間の方がおとなしくしていればいいんだよ」
なんと言われようと、熊は怖い。
どういう学説があろうと、何だろうと、カナダやアラスカでは、何人も、熊のために人が殺されたり喰われたりしているのである。
「今のグリズリーはね、川をのぼってくるサーモンを食べているから腹がいっぱいなんだ。お腹がいっぱいのグリズリーは、人を襲わないんだ。山の中には、イチゴやブルーベリーなど、この時期にはたくさん実をつけているから、グリズリーは人間なんか食べたりはしないんだ」
しかし、ニュージーランド人のポールというカヌーイストがいるのだが、彼の友人は、この時期のアラスカで、グリズリーに喰われて死んでいるのである。
さらに、ぼくもアラスカで会ったことのある、星野道夫さんという眼のきらきらしたカメラマンは、この時期に、ロシアのカムチャッカ半島で、熊に喰われて死んだのである。
彼の身体の半分以上は、その熊の胃の中から見つかった。
こういうことを、ひとりでテントの中にいると思い出してしまうのである。
テントの闇の中、眼が尖ってしまう。
心が尖ってしまう。
全身が針のように鋭敏になって、夜の物音や、自分の心と闘ってしまうのである。
本当に眠るのは、テントが、朝方ほんのりと明るくなってからだ。
朝起きると、火が燃えていて、ごついポットが炎の中にごろんと置かれている。
「モーニン」
「モーニン」
「バク、カフィー?」
ポールが聴いてくる。
「イエス、プリーズ」
コーヒーを飲みながら、明るい朝の光の中で、久しぶりの夜の体験のことを野田さんに話す。
「あれは、ムースだな」
と、野田さんは言った。
夜に聴いた、あの不気味な声のことを、教えてくれた。
「新宿でも、おれはあれを聴いたことがあるな」
「新宿!?」
「何もかも絶望した女の声さ。安い宿に泊まった時、どこからともなく、その声が聴こえてきたなあ・・・・」
嬉しそうに野田さんが言うのである。
夜の新宿の安宿。
そこへ、女のあの時の声が聴こえてくる。
男の声は聴こえない。女の声だけである。
「歳の頃なら、四〇過ぎの五〇前だなあ。人生の全てに絶望している女の、何とも哀しい、やり場のない声だよ」
しかも、悦びの声である。
「おれはそのマネがうまいんだ」
野田さんは、喉を空に向かって立て、
「あ〜〜〜〜〜あ゛〜〜〜〜〜〜ああ゛ああ゛・・・・」
その真似をした。
そっくりである。
ぼくと彦いちさんは、野田さんと一緒になって喉を立て、
「あ〜〜〜〜あ゛〜〜〜〜〜」
「あ〜〜〜〜あ゛〜〜〜〜〜」
三人そろって、その声をあげたのである。
「少し違うな。こうだぜ」
野田さんがまた、
「あ〜〜〜〜〜」
我々も一緒に、
「あ〜〜〜〜〜」
これを、パンを焼きながらポールが聴いているのである。
(以下次号)