夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第24回》〜ユーコン日記その3〜

文・夢枕 獏

 最初の晩、実は、ぼくはほとんど眠れなかった。
 小さなテントの中で寝袋にくるまり、眼を閉じて、眠れぬまま、ずっと深夜の森の物音を聴いていたのである。
 夜の森は、様々な物音がする。
 小さな小動物の疾る音。
 ミンク、ビーバー、リス──そういった類の小動物が、水辺に近い森の中を動くのである。かさこそと枯れ葉を踏み、繁みを音をたててくぐってゆく音がする。
 そして、川の音。
 サーモンの跳ねるどぼんという太い音もする。
 この最初の晩に、オオカミの遠吠えも聴いた。
 野田さんも彦いちさんも、森の中の思いおもいの場所にテントを張っていて、そこからそれぞれの鼾も聴こえてくる。
 場合によっては、これがどうしても動物の息づかいに聴こえてならない時もある。
 そして、ふくろうの声。
 なんだかよくわからない、薄気味悪い動物の呻き声──翌朝、これはムースの声とわかるのだが、テントで耳にしている時は、これがわからず実に不気味なのである。
 そして、カナダガンの群。
 カナダガンは、朝方近く、何度も何度も水辺にやってきては、羽音と水音をたて、せわしなく何度も鳴きあげていく。
 ひと晩中、森が騒いでいるのである。
 これらの物音、声、息づかいが、いずれも最初は、
 ・グリズリーのものではないか・
 と思ってしまうのである。
 グリズリーというのは、巨大な灰色熊だ。
 おそらく、地上の動物の中では一番強いのではないかとぼくは思っている。
 ライオンよりも、虎よりも、オオカミよりも。
 日本にいるヒグマよりもずっと巨大で、ブラックベアーを一撃で殺して食べてしまうそうである。
 みしり、
 ぱきっ、
 と、森の中に落ちている小枝の折れる音や、繁みを何かの動物が巨大な身体でこすりあげていく音を聴くと、
 ・グリズリーが来た・
 と思ってしまうのである。
 もちろん、テントの中から視認できるわけはない。
 耳だけで森を視ているのである。
 森を聴いているのである。
 「熊は人を襲わない」
 と、したり顔でまことしやかに言う人物がいる。
 「人と熊が出会えば、熊の方が逃げてゆくから」
 「なにしろ、熊のテリトリーの中に人が入ってゆくわけだから、人間の方がおとなしくしていればいいんだよ」
 なんと言われようと、熊は怖い。
 どういう学説があろうと、何だろうと、カナダやアラスカでは、何人も、熊のために人が殺されたり喰われたりしているのである。
 「今のグリズリーはね、川をのぼってくるサーモンを食べているから腹がいっぱいなんだ。お腹がいっぱいのグリズリーは、人を襲わないんだ。山の中には、イチゴやブルーベリーなど、この時期にはたくさん実をつけているから、グリズリーは人間なんか食べたりはしないんだ」
 しかし、ニュージーランド人のポールというカヌーイストがいるのだが、彼の友人は、この時期のアラスカで、グリズリーに喰われて死んでいるのである。
 さらに、ぼくもアラスカで会ったことのある、星野道夫さんという眼のきらきらしたカメラマンは、この時期に、ロシアのカムチャッカ半島で、熊に喰われて死んだのである。
 彼の身体の半分以上は、その熊の胃の中から見つかった。
 こういうことを、ひとりでテントの中にいると思い出してしまうのである。
 テントの闇の中、眼が尖ってしまう。
 心が尖ってしまう。
 全身が針のように鋭敏になって、夜の物音や、自分の心と闘ってしまうのである。
 本当に眠るのは、テントが、朝方ほんのりと明るくなってからだ。
 朝起きると、火が燃えていて、ごついポットが炎の中にごろんと置かれている。
 「モーニン」
 「モーニン」
 「バク、カフィー?」
 ポールが聴いてくる。
 「イエス、プリーズ」
 コーヒーを飲みながら、明るい朝の光の中で、久しぶりの夜の体験のことを野田さんに話す。
 「あれは、ムースだな」
 と、野田さんは言った。
 夜に聴いた、あの不気味な声のことを、教えてくれた。
 「新宿でも、おれはあれを聴いたことがあるな」
 「新宿!?」
 「何もかも絶望した女の声さ。安い宿に泊まった時、どこからともなく、その声が聴こえてきたなあ・・・・」
 嬉しそうに野田さんが言うのである。
 夜の新宿の安宿。
 そこへ、女のあの時の声が聴こえてくる。
 男の声は聴こえない。女の声だけである。
 「歳の頃なら、四〇過ぎの五〇前だなあ。人生の全てに絶望している女の、何とも哀しい、やり場のない声だよ」
 しかも、悦びの声である。
 「おれはそのマネがうまいんだ」
 野田さんは、喉を空に向かって立て、
 「あ〜〜〜〜〜あ゛〜〜〜〜〜〜ああ゛ああ゛・・・・」
 その真似をした。
 そっくりである。
 ぼくと彦いちさんは、野田さんと一緒になって喉を立て、
 「あ〜〜〜〜あ゛〜〜〜〜〜」
 「あ〜〜〜〜あ゛〜〜〜〜〜」
 三人そろって、その声をあげたのである。
 「少し違うな。こうだぜ」
 野田さんがまた、
 「あ〜〜〜〜〜」
 我々も一緒に、
 「あ〜〜〜〜〜」
 これを、パンを焼きながらポールが聴いているのである。
(以下次号)


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