二十八日、朝、出発。
サンデイレイクに向かって、ビッグサーモンリバーを漕いでゆく。
なんという静かな流れであろうか。
水が、ジンの如くに澄んでいる。
川底の砂は白く、藻が揺れている。
その間を、大きな五〇センチ余りのグレイリングの群が悠々と泳いでいる。
カヌーが近づいてもなかなか逃げようとしない。
耳が痛くなるような静けさの中で、鳥の声が響く。
パドルは動かさない。
水面を揺らしたくないからであり、わずかな水音もたてたくないからである。
至福の三〇分。
サンデイレイクに出て、一〇キロ余りを漕いで、湖の流れ出しに入る。
入ってすぐ──左側に、ドイツ人の建てた小屋がある。
そこでキャンプとなった。
小屋は四人泊まれる広さがあるが、テントで寝る方がリラックスできるので、ポールが小屋で眠り、我々三人は外にそれぞれテントを張った。
小屋の横に高く櫓が組んであり、その上に小さな小屋が建っている。
「あれは食料庫だよ」
野田さんが教えてくれた。
「鼠や動物が、小屋の中に入れておいた食料を食べてしまうので、あれだけ高い場所に食料を保存しておくのさ」
かつて、戦争中に、アメリカ軍の兵士がこれで助かったことがあるそうである。
冬───
飛行機が墜落して操縦士がパラシュートで脱出した。
仲間の誰もが、彼は死んだものと考えていたのだが、なんと彼は、マイナス四〇度にもなるひと冬を雪の原野でサバイバルして、生きぬいてしまったのである。
「たまたま、こういう食料庫のある所にたどりついて、それでひと冬生きのびることができたんだよ」
なるほど。
野田さんが教えてくれたことは、もうひとつあった。
「このすぐ下流に、キングサーモンが溜まる淵がある。以前来た時は、そこでグリズリーがサーモンを捕っていてさ、なかなかどかないんで、半日待ったことがあるんだ」
それは凄い。
ぼくは彦いち師匠と一緒に、カヌーで下流に移動し、言われた中州に上陸した。上陸してみると、なるほど、そこら中にグリズリーの足跡がある。なかなか怖い情景である。
中州から、言われた流れにルアーを投げたのだが、魚信がまるでない。話よりも、浅くなっていて、淵が砂で埋まっているように見える。眼で捜してもサーモンは見えない。
釣れないと、いつグリズリーが出てくるか、そんなことが気になってくる。
銃はキャンプ地に置いたままであり、ここにはない。
おもいきって、中州を移動して、反対側の流れをねらうことにした。
しつこくルアーを投げていると、浅瀬を動くものが見えた。
なんと、キングサーモンの背ビレである。
「いた!!」
声をあげて、下流にいた彦いち師匠を呼んだ。
確かにキングサーモンである。少し下流に深場があり、時おりその深場からキングサーモンが浅瀬までのぼってきては、そこで遊んでゆくのである。
さらに見ていると、浅瀬の流れのやや深いあたりに、点々とキングサーモンの魚影が見えているではないか。
その数、四〜五尾。
それから一時間───ただひたすらルアーを投げ続けるのだが、掛からない。
河口から、およそ三〇〇〇キロ──川に入ったサーモンは、ただでさえエサを食べないのに、こんな上流まで来たサーモンは、めったに何かを口にすることはない。
それは知っていたので、ルアーを、サーモンの口の中に放り込むつもりで投げた。サーモンより遠くの上流にルアーを着水させ、水中を引きながら、ちょうどルアーをサーモンの鼻先に持ってゆく。
サーモンとの距離、およそ三〇メートル。ゆらりゆらりとサーモンは動いており、なかなか鼻先にゆかないが、たまには鼻先十センチくらいのところをルアーが通過する。それでも、サーモンはバイトしない。
食欲がなくとも、いやがるか、興味を持つかして、人間で言えば手で払うようなつもりで、口で啣えたりするのだが、ここのサーモンはそれすらもしない。
一時間半くらいしたところで、上から野田さんとポールが様子を見にやってきた。
「どう、釣れている?」
「あそこにいるんだけど、全然反応がなくて───」
そんな話をしていると、急にポールが浅瀬を、棒を持って走りはじめた。
「キングだ!!」
キングサーモンが、我々の立っている浅瀬にのぼってきたのである。ポールは、それを棒で叩いて捕まえようとしているのである。
野田さん、彦いち師匠が、ポールに加わって、三人でキングを捕まえようとしたが、失敗。
野田さんとポールがキャンプに戻った後も、僕と彦いち師匠は、そこに残ってルアーを投げ続けた。
さすがにあたりが暗くなりかけた頃───
ほとんどサーモンの口にぶつかりそうな場所をルアーが通過していった時、いきなり、それまで見向きもしなかったサーモンが、そのルアーを啣えてきたのである。
「ヒット!!」
ぐりん、ぐりん、とサーモンがルアーを啣えたまま身をくねらせる。その重さと動きが、はっきりロッドに伝わってくる。
急に、サーモンが上流に向かって走った。
凄い力だ。
きりきりと、リールからラインが出てゆく。
ラインを巻くことができない。
竿を立てたまま、ぼくは、ゆっくりと後ろに下がりはじめた。
(以下次号)