夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第26回》〜ユーコン日記その5〜

文・夢枕 獏

 浅瀬といっても、膝まである長靴の喫水線ぎりぎりの深さである。
 場所によっては深かったりもするのだが、後ろ向きで下がるため、それを避けてはいられない。なにしろ、ラインの先には大物のキングサーモンがいて、ぐいぐいと竿全体を折り曲げてくるのである。長靴の中には冷たい水が入ってくるが、もう、気持ちはキングに集中しているためかまっていられない。
 岸にあがる。退がる。
 キングが岸に寄ってくる。しかし、ぼく自身が、岸の上をさらに退がっているため、キングとぼくの距離は同じである。
 すると、奇妙なことが起こっているのに気がついた。
 ぼくが引っぱってきたキングに寄りそうように、もう一匹のキングが水の中をついてくるのである。浅瀬までやってきても、逃げない。
 ぼくがフックさせたのはメスのキングで、そのメスのキングに、ペアのかたわれであるオスのキングがついてくるのであった。
 宇宙人にさらわれてゆく妻を追ってくる夫───とは違うだろうが、感情移入をしてしまう。
 もとより、魚に人間的な感情があって、それによって追ってくるのではないと思うが、なんだか、もの哀しい光景である。自分で釣っておいて、何を言うかと思われてもしかたないが、胸が傷む。胸は傷むが、しかし、でかい魚と、今まさにファイトをしているという気が遠くなるような悦びもまたぼくの内部にあって、ふたつの心のせめぎあいの中で、キングはじりじりと陸に近づいてくるのである。
 キングが、岸ぎりぎりまで寄ったところで、ポンピングしながらリールを巻きあげ、今度はぼく自身が寄ってゆく。
 そこで、ようやくオスのキングが逃げ出した。
 陸にあげてみれば、産卵を終えた、痩せ細ったキングのメスであった。
 全長、九十三センチ。
 このキングを抱えて、キャンプにもどった。
 「おう、エクセレント!」
 ポールは叫び、
 「やったな」
 野田さんも悦ぶ。
 このキングは、身はステーキに、頭はポールがインディアン風スープにした。
 しみじみとビールがうまい。
 小屋には、日記帳が置いてあり、利用した人間が、勝手に何か書き込んでゆくようになっている。
 ぱらぱらとめくってゆくと、日本人の書き込んだものがあった。
 日付は、四年前の一九九九年九月十日。
  やっと着いた。ビッグサーモンリバーに着く前に湖で死にそうだった。
  やばかった。あと九日間、死なないようがんばろう。
                              安井徹
  寒くて疲れた。湖は地図より大きく見えるし、今日は曇っているし、大波が立っているし、
  手がかじかんで字が書きにくい。さあ、これからビッグサーモンを下ります。
  生きて日本に帰れるように。もし死んだら、みなさん嘘ついてきてごめんなさい。
  私の人生はここまででした。許して下さい。
                                     畑山マキコ
 とある。
 若い日本人の男女が、自分たちふたりだけで、ここまでやってきたらしい。
 九月十日と言えば、我々より半月遅い。
 もう、ここでは冬だ。日記を見ると、・曇っていて、大波が・とあるので、かなり風が吹いていたのであろう。
 「ああ、きっとこのふたりは、野田さんの本を読んで、ここまで来ちゃったんだろうなあ──」
 とぼくは言った。
 「男の方が、女の子を誘って、周囲に嘘をついてここまで来ちゃったんだろうけど、このふたり、生きて日本に帰ったら、絶対すぐ別れたか、すぐ結婚したかのどちらかだろうなあ」
 夜───
 焚き火を囲みながら、彦いち師匠が、英語で小咄をやる。
 さげを言うと、タイミングひと呼吸遅れて、
 「ウオホホホ」
 ポールが笑う。
 この日から、毎晩、彦いちさんがポールに小咄をやることになる。
 日本語の短い小咄もポールに教える。
 「パンツ破れちゃった」
 「またかい」
 なんてやつを、毎晩ポールがひとつずつ日本語で覚えてゆくのである。
 これがなかなか愉快である。
 二十九日、晴れ、時々曇り。
 昼近くに出発。
 ここから、いよいよ本格的な川下りになる。
 水の流れが速くなり、川が右に左に小さく蛇行している。
 何しろ、大自然の中の川だから、川岸を常に水が削っている。すると、岸に生えている樹の根元が崩れ、何本もの樹が、川に向かって倒れ込んでいる。
 特にカーブの外側でそういう樹が川の中に倒れ込んでいるケースが多い。
 しかし、川の水は、そういう木の下をくぐって流れてゆくので、川の流れに乗ってカヌーを漕いでゆくと、自然にそういった樹にぶつかってしまうことになる。そして、カヌーが樹の下に潜り込んだら、ほとんど浮かんでこない。水中に伸びている樹の枝にひっかかって、人間もそこで溺れ死ぬことになる。
 川の事故は、これが多い。
 だから、樹に引っかからぬよう、できるだけ内側をまわってゆくのがいいのだが、水の流れが速く、水路も狭いとなかなかうまくゆかない。
 特に、ぼくの相方はポールである。
 指示は、後方から英語で飛んでくる。
 これが、急流の中にいると、とっさに理解できず、とんちんかんなパドルの使い方をしてしまうことになる。
 それで、怖い目にあった。
(以下次号)


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