夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第27回》〜ユーコン日記その6〜

文・夢枕 獏

 急流に、カヌーが入ってゆく。
 眼の前にカーブが迫ってくる。
 「バク!」
 後ろから、ポールの大声が飛んでくる。
 「ホワット?」
 ぼくが大声で訊ねる。
 「バク!」
 また大声が飛んでくる。
 「ホワット?」
 ぼくも怒鳴る。
 両方で叫ぶのだが、互いに何を言ってるのかわからない。大声でやりとりしながら、どうにか急流のカーブを乗りきって、ゆっくり話を聴いてみれば、
 "ぼくの名前のバクではなくバックである"
 ということがわかる。
 後方に向かって、バックに漕げという指示であったのである。
 方向を変えたり、流れる水の上で前方の様子を見るため、カヌーの進み方を遅くしたりするということが、川下りではよくあるのだが、それが現場で急に言われた途端、名前を呼ばれているのか、バック漕ぎの指示なのかが一瞬わからなかったのである。
 まだある。
 やはり、急流で、右側を漕げ、あるいは左側を漕げ、という指示がよくわからないことがある。
 のんびりしている時ではない。
 激流で、前方に大岩が迫っている。さらにその向こうにも大岩が点々と頭を出している。最初の岩を、ポールが右へよけようとしているのか、左によけようとしているのか、ぼくにはわからない。ぼくの判断でやると、ポールの考えと反対になってしまった場合、カヌーがバランスを崩して、横向きに岩に当たったりすることもある。
 指示を待っていると、
 「レフト!」
 「ライト!」
 とポールが叫ぶのだが、この"レフト"と"ライト"が、よく聞きとれないことがあるのである。
 また───
 「ルック。ウォッチング」
 ポールが言う。
 "見て捜せ"
 と言っているのだろうが、何を捜すのか、と思っていたら、これが、
 「ロック、ウォッチング」
 であったとわかる。
 流れの中で、岩が水面下ぎりぎりのところによく転がっている場所なので、岩に気をつけてくれというほどの意味なのだが、これも何度かやりとりをしないとわからない。しかし、やりとりをしている間にも、岩は近づいてくる。
 まことに、コワいのである。
 「パドル!」
 は、"漕げ"であり、
 「ジェントル」
 は、"ゆっくり"であり、
 「パワー!」
 は、"おもいきり漕げ"ということが全てうまく伝わるまで、半日、我々はお互いにコワい思いをしたのである。
 途中、ヘアピンカーブがあり、そのコーナーに樹が倒れている。
 急流がその樹の下をくぐっている。
 どうやっても、その樹にぶつかりそうである。
 岸にカヌーを止めて、それを眺めていたポールが、
 「ウォーキング」
 ぼくに言った。
 ポールは、水中を歩き、ロープでカヌーをひきながらそこをやりすごし、ぼくは歩いて岸伝いにそこを越えた。
 先行の野田さんたちは、カーブの向こうで待っていて、
 「あそこで樹にぶつかり、危うく沈(ちん)するところだった」
 そう言って、ポールの判断を褒めた。
 途中、おびただしい量の流木が、ダムのように川をせき止めていて、
 「前の時は、ここを荷とカヌーを担いで越えたんだ」
 と野田さんが言った。
 気が遠くなるような流木の量だった。
 歩いて、流れを捜す。右に、小さな流れが下っていて、そこを通ればなんとか抜けられそうなので、ともかくそこを下ってゆく。
 流れとカヌーの幅が同じくらい。
 左右は流木の山。
 途中の浅瀬でカヌーを降り、手でカヌーをひいてゆく。
 しばらく行った所で凄い獣臭がする場所があった。見れば、岩の砂の上にでかいグリズリーの足跡が無数についている。
 ビーバーのダムがある所を越えると、ようやく流れが深くなり、またカヌーに乗る。
 六時まで漕いで、キャンプ。
 30日、十二時に出発。
 出発から雨だった。
 雨の中を黙々と漕いでゆく。
 もう、ほとんど急流はない。
 昨日まで水中に見えていたサーモンが、もうほとんど見えなくなっている。
 カヌーから見あげる山の上では、もう紅葉が始まっていて、それが、ゆっくりと、毎日、ぼくらがいる川の標高に向かって近づいてくるのがわかる。
 八月だが、ここではもう秋なのである。
 カヌーを川の流れにまかせ、小雨の中、野田さんがハーモニカを吹きはじめた。
 "ふるさと"
 日本の曲が、しみじみと胸に染みてくる。
 ようやく岸の崖の上にキャンプ地を見つけ、そこへ荷をあげる。
 森の中だ。
 雨が止まないので、タープがわりの巨大なビニールシートを周囲のスプルースの樹の幹を支点にして張った。
 張り終えた途端に、大雨となり、風が強くなった。
 ほとんど、嵐である。
 シートからは、滝のごとくに水が落ちてくる。
 「こういうことがなくちゃ、おもしろくない」
 野田さんは言った。
(以下次号)

※タープ・・・・タープの正式名はTARPULINと言い、防水シートの意味。


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