夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第28回》〜ユーコン日記その7〜

文・夢枕 獏

 野田さんが、雨と風の中でまたハーモニカを吹く。
 「たんたんタヌキの───」
 で知られる替え歌のあるあの曲である。
 吹き終わってから、
 「これは、葬式の歌なんだ」
 そう言って、野田さんはこれを英語で唄った。
 歌詞を日本語にすれば、
 「こよい、我ら河のほとりに集わん・・・・・・」
 で始まるしみじみとした友を送る歌である。
 「なんで、あんな歌詞をあてちゃったんだろうなあ」
 そして、日本の川や海や、水辺の話になった。
 このところ、こういう話題になると、暗い話が多い。
 日本の川の多くに必要のないダムが造られ、河川工事によって、日本の水の周辺はぼろぼろになってしまっている。
 先日行ったあそこの川が、もうダメになっちゃった。
 一年前のあのポイントは、今は堰堤ができて浅くなっちゃっている。
 外来魚で、雑魚がほぼ全滅。
 湖や海が埋め立てられて、もう遊べなくなった。
 この時もそういう話になった。
 「おれはね、一度でいいからさ、死ぬまでに、責任者をおもいきりぶん殴ってやりたいよ」
 しみじみと野田さんは言った。
 「それで、おれはもういい」
 もう、長良川や吉野川などのことで、十数年も我々は闘い続けてきた──その実感である。
 しかし、誰が責任者か。
 それが見えない。
 我々は、お酒を飲みながら、誰をぶん殴るか、という話をした。
 「でも、誰を殴ればいいんだろうなあ」
 政治家なのか。役人なのか。企業なのか。それとも、我々ひとりひとりなのか。
 「もし、殴るやつが決まったら手伝いますよ──」
 「どうしたらいい?」
 「作戦を考えましょう。いきなり玄関に立って、殴りに来たと言っても会えないでしょうから、ひっぱり出せばいい」
 「どこへ」
 「みんなのいる所へ。公開討論会でもいいです。たくさんの人が見ているところで、おもいきりくらわせてやりましょう」
 「しかし、向こうが出てくるかな」
 「まず、相手を褒めましょう。最近の○○氏は評価できる、彼も国のためにがんばっている──こんなことを言ったり書いたりして、対談するところまでもっていきましょう」
 「うん」
 「その会場で、殴る」
 「しかし、素手で殴ると、こっちの手が痛いんだよな。くだらん人間を殴って、こちらの手が傷つくというのもくやしいなあ」
 「じゃあ、何かで殴りましょう。あらかじめ、そういう殴るものを持っていくと、罪が重くなりますから、その時たまたま身につけていたもので叩くというのがいいですね。そうだ、下駄なんかどうですか、下駄。はいていた下駄で叩く──」
 「下駄かあ」
 「下駄でいきましょう」
 呑むほどに、酔うほどに、話はとりとめなくなってゆくのである。
 最後に、野田さんが、ハーモニカで「シェナンドー」を吹いて、眠ることになった。
 テントに入り、寝袋に潜り込む。
 テントのフライシートに、ばらばらと雨が当たり続ける。
 雨は小降りになったが、風はまだ強い。
 遠い空のどこかで風が始まり、山々をざわめかせながら近づいてくる。
 ざあっ、とテントの上の樹々を揺すりあげ、またその風が去ってゆく。四方八方で風が起こり、近づいてきて、また去ってゆく。
 世界の全てが風だけになってしまったようである。
 自分の身体の内部からも、地面の底からも、あらゆるところから風が吹いてくる。
 寝袋の中で丸くなっていると、急に、世界中の人たちに優しくしたくなってしまう。
 妙な気分だった。
 森の底は、降りつもった枯れ葉で、ふかふかのベッドのようだ。
 いつの間にか、風の音を聴きながら眠ってしまう。
 翌朝───
 眼を覚ますと、
 「これを見ろ」
 ポールが言った。
 ポールは、我々のキャンプサイトの樹の軒を指差している。
 見ると、そこに、動物の毛がくっついている。
 「これは、グリズリーが、縄張りを示すために、自分の身体をこすりつけていった跡だ」
 驚くようなことを言い出した。
 「昨夜のこと?」
 「いいや。もっと前だと思う。でも、怖がると思って、昨晩は言わなかったんだ」
 よかった。
 ほんとうに、昨夜、このことを教えられたら、怖くて眠れなかったろう。
 31日、朝、出発。
 曇り。小雨。晴れ。これが交互にやってくる。
 まことにユーコンらしい天候である。
 小さな流れ込みがあったので、そこでグレーリングを釣り、昼食。
 砂地に、何かひきずったような跡がある。
 「グリズリーが、サーモンをここでつかまえて、森の中まで引きずっていった跡だよ」
 ポールが言う。
 またカヌーを漕ぐ。
 広い河原のあるキャンプ地を発見、上陸。
 「ここで、二泊しよう」
 野田さんは言った。
 さっそくテントを張り、ザックの中から濡れたものを出し、河原中にそれを広げて乾かしていると、ポールが銃を持ってやってきた。
 「これを撃ってみるか」
 ポールは言った。
(以下次号)


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