夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第32回》〜充実した日々である〜

文・夢枕 獏

 このところ、遊びまくっていて、仕事もしまくっている。
 おそろしいことに、ぼくの場合、遊びと仕事がみごとに両立してしまっているのである。
 つい先日も、山形県の瀬見温泉まで、仕事と鮎釣りに出かけてきた。
 ランドクルーザーに釣り道具一式と仕事の道具を放り込んで、神奈川県から山形県まで、いっきに駆けつけてしまったのである。
 四泊五日──以前から、鮎のいる川の横にある温泉に泊まり込んで仕事がしたかった。
 和室の部屋からは、鮎のいる清流が見え、いつでも好きな時にペンを置いて竿を握る。徒歩で川に出ることができ、二時間三時間も竿を出せば、世間様に顔向けができないほど鮎が釣れてしまう。
 宿にもどって、温泉で汗を流し、部屋にもどって冷たいビールをあける。
 一杯ぐいと飲んだところで、
 「鮎が焼けましたよ」
 品のいい女将が、さっき調理場に置いてきた釣ったばかりの鮎を、上手に焼いて持ってきてくれる。
 テレビは点けない。
 暮れゆく川を、ぼうっと眺めていると、夕食の時間になる。
 ふとんは、テーブルの前に敷きっ放しだ。
 そこであぐらをかいて、書きかけの原稿をちらちらと眺めたりするだけで、まだペンは握らない。
 部屋は、資料やら何やらで、散らかし放題だが、自分では何がどこにあるのかわかっている。
 夕食を、ひとりで黙々と食べる。
 仕事用のテーブルと、食事用のテーブルは別だから、すぐに仕事にかかることができる。川のせせらぎを聴きながら、ペンを走らせる。一行書くのに三〇分かかったり、資料を眺めて、ある人物の年齢を調べるだけで四〇分かかったり──そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にかペンは飛ぶように動いている。
 気がついたら、もう真夜中である。
 あと、二〜三時間はがんばれそうである。
 ふう、と溜め息をついたところで、とんとんと、ノックの音がする。
 「どうぞ」
 というと、さっきの女将が、お盆に冷たい麦茶の入ったコップを載せて入ってくる。
 「喉が渇いてるでしょう」
 コップをテーブルの上に置く。
 原稿が、ちらりと眼に入ったらしく、
 「何を書いていらっしゃるんですか」
 女将が訪ねてくる。
 「小説です」
 「小説?」
 「江戸時代に恐竜が出てくる話です。龍だ龍が現れた、と大騒ぎになる。そこに現れたひとりの男。『ありゃあ龍じゃあねえよ、この世の生き物さあ』──これが平賀源内。それで、この平賀源内が龍たいじをすることになる──」
 手短に、その時書いていた小説の話をすると、
 「おもしろそう」
 女将が言う。
 よく見れば、仕草も顔も色っぽい。歳の頃なら、三〇代の半ばをやや過ぎたかどうか。子供はおらず、三年前に亭主が死んで、今は独りで宿をきりもりしている。
 話をしているうちに、いつの間にかビールになり、
 「お台所になにかおつまみが──」
 ほどよい肴がひとつふたつ出てくる。
 窓からは、カジカの鳴き声が聴こえ、蛍なんぞがひとつふたつ飛んでゆくのが見える。
 「ちょっと酔っちゃったかしら──」
 ここまで状況ができあがったら、このあとはもう──なんだというの。
 ともかく、山形県の最上川の支流、小国川沿いにある温泉まで行ってきたのだった。
 小田原を出てから、ひたすら休まずに走って八時間。
 哀しいことに、出発したとたんに、車のクーラーが効いていないことに気がついた。どこをどういじってもだめである。おかげで、七月の一番暑い時に、窓を開けっ放しでずっと車を走らせることになってしまった。
 五日間、同じ部屋でふとんを敷きっ放しにして、原稿を書いた。
 午後に、宿のすぐ前を流れている小国川で釣り。今年の小国川は、鮎が少なく、釣り人がほとんどいなかった。何もいい話は耳にしていないのだが、ぼくの泊まった瀬見温泉の前だけは、鮎がうじゃうじゃといる。
 橋から見下ろせば、川中で鮎がキラキラと踊っていて、まあ、ざっと一万尾はいるのではないか。
 しかし、これが群れ鮎で、追いがない。
 これでは友釣りにならない。
 初日は、三時間やって釣れず、ゼロ。
 哀しく竿をたたんだのだが、その夜は仕事に力が入らない。翌日は、遅れをとりもどすために一日中原稿を書いて、三日目の午後に川に入った。
 やや上流の瀬に入ったのだが、これが大当たり。久しぶりの入れ掛かりとなってしまったのである。オトリ鮎が、どっちの方向に泳いでいっても、がつん、がつんと野鮎が掛かってくるのである。
 一時間で十尾を釣りあげ、もう二時間ほどやって、四尾ほどを釣りあげる。セットばらしや、根がかりで、二尾ほどロスして、竿をたたむ時に手元に残った野鮎は、結局十二尾だったが、まずまずの釣果であった。
 いい気分で風呂に入っていたら、ややや、一本仕事があることを思い出した。しかも締め切りは昼である。短い原稿なのだが、すでに六時間も過ぎてしまっている。
 「あと二時間で入れますから」
 あわてて電話を入れて、ぐいぐいと原稿を書き、これを宿のFAXで入れて、ようやくビールである。
 際どい仕事であったが、これはこれでかなりの充実感があった。
 五日目──
 朝五時から原稿を書き、昼前には宿を出る。
 高速を走りながら、パンと牛乳で食事。クーラーの効かない車で東京に出るも、渋滞にぶつかり、池袋で首都高を下り、車を駅前の駐車場に入れて、そこから山手線で渋谷に出て今度出る本『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』のインタビューを受ける。
 その後、ふらふらになりながら、代々木体育館で「K-1MAX」の観戦。
 その後食事をして、池袋にもどり、車を運転して小田原に帰ったら、夜半の一時半になっていた。
 しんどいが納得の日々なのである。


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