夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第34回》〜台風と釣りと青ギス〜

文・夢枕 獏

 今年のプライベートな遠出(ほとんど釣り)はついてなかった。
 出かけようとするたびに台風とぶつかって、さんざんな目にあってしまった。
 最初は、五月である。
 五月半ばすぎに、紀伊半島へ出かけた。
 年に何度かやっている大人の遠足で、絵師の天野喜孝さんや、作詞家の松本隆さん、漫画家の萩尾望都さんたちと二泊三日の旅行に出かけてきたのである。
 台風接近中であり、飛行機が飛ぶかどうかあやぶまれる状況の中で羽田に集合。なんとか南紀白浜に着いたものの、台風が追いついてきて、豪雨の中のドライブとなった。
 これはこれで楽しい旅であったのだが、その後がいけない。
 七月の初旬に、四国へ鮎釣りに出かけた。
 これも、台風が通過した直後であり、初日二日は釣りにならず、なんとか釣ったのは三日目の午前中だけというありさまであった。
 次が、九州である。
 これは、台風のまっさかりの時であり、三日間、九州をうろついて、竿を出したのだが、釣れたのは、メンバーの中でぼくが一尾だけ。八月に北海道へサーモンを釣りに行ったのだが、これも台風で釣りにならなかった。八月末の裏マスターもほぼ同様。
 これにはさすがに怒った。
 「よい釣りをしないまま、夏が終わってしまうではないか」
 九月の頭に、予定になかった四国行きを企てたのである。
 この夏最後の挑戦である。
 しかし、この計画も、台風十六号のため、断念せざるを得なくなった。
 四国、九州の川はおもいきり増水し、とても鮎釣りどころではない映像がテレビのニュースで流れている。
 なんとくやしいことであろうか。
 八月の、比較的晴れが続いていた時期は、なんと、ぼくはずっと仕事をしていて、釣りに出かけてないのである。なんたることか。
 もうひとつ、鮎でもサーモンでもないが、この夏は、あることを計画していたのである。
 それは、青ギス釣りである。
 青ギスというのは、魚の名前である。
 海の魚だ。
 多くの人が、キスという魚を、天ぷらか何かで食べたことはあるだろう。白身で淡泊、なかなかおいしい。しかし、この・キス・は、正式にはシロギスという魚で、アオギスではない。
 昔は、このアオギスが、日本中の海にいたのだが、今はほぼ絶滅してしまっている。
 干潟に、きれいな川の水が流れ込んでいるところにしか棲息しない魚で、シロギスよりずっと環境の影響を受けやすい。
 昔は、東京湾のいたるところにいて、江戸から昭和の初め頃まで、キス釣りと言えばこのアオギス釣りのことであった。
 シロギスよりも大きくなり、体長は三〇センチを越える。
 掛かれば竿がぐいんぐいんと曲がり、糸鳴りがする。ぼくはまだ釣ったことはないが、釣った人の言葉によれば、
 「気が遠くなりそうなくらい興奮した」
 というのである。
 今度、講談社で『大江戸釣客伝』という釣り小説を連載することになり、江戸時代の釣り人たちのあれこれを書かねばならないのだが、それだったら、ぜひとも、このアオギス釣りを体験しなければならない。
 しかも、リールなどのついてない竹竿でやらねば意味がない。
 というわけで、昔ながらの竹竿を買い込んできた。
 これが、なかなか高い。一本十六万円である。
 しかし、江戸の釣りをするためにはこのくらいの出費は覚悟しなければならない。おもしろい原稿を書いて、もとをとればいいのだ。
 それに、こういう竿を使って釣りをするというのは、取材という以上の楽しみがある。
 仕事のために釣りをするのか、釣りをするために仕事にしたのか、考えているとよくわからなくなってしまうのだが、ともかく、この竿を持って、アオギスを釣りに行くことにしたのである。
 さっき、ぼくは、アオギスはほぼ絶滅してしまっていると書いたが、実は、日本でただ一か所、このアオギスが棲息しているところがあるのである。
 そこへ出かけることとなったのである。
 この話をしたら、
 「それはおもしろい」
 某、アウトドア系の編集者が同行するというのである。
 この編集者、別に仕事にしようというのではなく、単なる釣りスケベなのであった。誰かが、自分の知らないところでおもしろい釣りをするのは許せないという単純な理由であり、同じ釣りスケベであるぼくには気持ちがよくわかる。
 もう一名、釣りなら何でもやる歯科医も、
 「それなら私も行きましょう」
 加わることとなったのである。
 そして、この釣行がまたなんと台風の直撃を受けてしまったのである。
 「なあに、いくら川の水が増えても、海の海面が高くなるわけはないですから、だいじょぶですよ」
 気やすめを言っていたのだが、やっぱり気やすめは気やすめであった。
 もよりの川が大増水しており、海は、川の色だか海の色だかわからない。
 干潟に流れ込む川の筋に沿ったあたりがポイントなのだが、とてもポイントに近づけない。
 「なあに、三日ありますから三日目には──」
 などと話をしていたのだが、三日目も水はひかず、濁りもとれなかった。
 「とにかく、やるだけやりましょう」
 三日目、帰るぎりぎりになって、濁った気水域に入り込んで竿を振ったのだが、釣れるはずもなく、なんと、ぼくは高い竹竿を折ってしまったのである。
 こんな哀しいことはない。
 「お、タナゴがいるぞ」
 打ちひしがれていたのだが、近くの甲水路にタナゴを発見。
 そこでタナゴを釣ってウップンをはらすというなさけないことになってしまったのである。
 ようし、連載開始は来年にのばして、また来夏にアオギス挑戦じゃあ。


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