夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第41回》〜春の大掃除と釣り〜

文・夢枕 獏

 岐阜県の、某河川のほとりに、釣り小屋をもっている。
 九年前に建てたもので、構造材は、岩手県の古い農家の材を利用した。江戸時代に建てられた農家で、とりこわされる時に、あまりに立派であったので、分解され、いつでもまた建てることができるように保存されてあったものだ。
 しかし、それをそのままもとのように建てるのには問題があった。材の一部が、だめになっていて、全てをそのまま利用できなかったのである。
 それで、それを古材として利用し、あらたに建物を設計しなおして、建てることにしたのである。
 これを、友人の設計士に頼んだ。何度も打ち合わせをして、かなり満足のいく建物ができあがり、ぼくはこれを「酔魚亭」と名づけて、年に六回ほど、ここへあそびに出かけている。
 陶芸の真似ごともできるようになっていて、いつでも土をひねって、ぐい呑みなどを造ることができる。
 しかし、これが実に掃除がたいへんなのである。
 帰る時に、きちんと掃除をしていっても、二カ月後に行って中に入ると、床一面に死んだ虫の死骸が落ちている。天井の角のあちこちに蜘蛛の巣が張っている。
 酔魚亭に行くと、気持ちがいいから、基本的には窓や戸を開け放して生活をする。
 三日から四日を酔魚亭ですごし、帰る時に掃除をするのだが、この時に掃除をするのは、実は、生活の汚れや、ゴミだけなのである。
 掃除が終わった時点では、多くの虫たちが、生きていて、壁や、天井や、部屋の隅に隠れている。この虫たちが、二カ月の間にほとんど死んでしまうのである。蜘蛛は、建物の中に入った虫たちを食べているので、なんとか生きのびることはできるのだが、蛾や蝶や蜂、カゲロウなど、多くの虫は、死んでしまうことになる。この虫たちの死骸が、床に累々とちらばっているのである。
 はたまた、どこから入り込んだのか、小さなハタネズミたちが、押し入れの中に潜り込んで、布団の間で木の実を食べたり、そこでおシッコをしたりするのである。
 これが、けっこう臭かったりする。
 そして、このネズミはなんと風呂まで入り込み、隠しておいた石鹸などを見つけ出して囓ってゆくのである。
 そこにも、ネズミのうんちやおシッコがいっぱいなのである。
 行くたびに、蜘蛛の巣をとり、虫の死骸をきれいにし、トイレを掃除し、窓ガラスをふき、電球をかえ、土間をかたづけ、洗濯をし、皿を洗い、生ゴミを出し、ビン、プラスチック、燃えるゴミなどを分類し──そんなことはしていられないのである。そんなことを毎回やっていたら、ただ掃除をしに行くためにだけ「酔魚亭」を利用することになってしまう。
 必要最小限の掃除はするが、それ以上のことはやらない。
 すると、だんだんと掃除をし残した場所や、雨戸が壊れたりしたところ、歪んできた風呂桶など、あれやこれやがたくさんたまってきてしまったのである。
 で、これからがようやく本題になるのだが、今回、おもいきってそれらをまとめて、業者を入れてきれいにしてしまうことにしたのである。
 専門のお掃除屋さんに来てもらい、電気屋さんに来てもらい、設計士の友人にも来てもらい、いっきに何年分かのトラブルをひといきにかたづけてしまうことにしたのである。
 というわけで、今、「酔魚亭」に来て、この原稿を書いているのである。
 四月七日だというのに、外の林の中にはまだ雪のかたまりがあちこちに残っている。
 標高は、七〇〇メートルほどあるので、春とはいえ、まだ、寒い。
 それでも、雪が溶けた地面からは、やわらかな緑色をしたフキノトウがたくさん顔を出している。さっき、これをとってきたので、今晩は、こいつをてんぷらにして食べることになっているのである。
 気分は、なかなか春なのである。
 ついでに書いておくのだが、実は、ここへ来る前、一日早く家を出て、新穂高温泉に行ってきたのである。
 夜に、ようやく宿にたどりつき、次の日の、つまり昨日の早朝に(すみません)二時間ほど釣りをしてきてしまったのである。
 またか───
 などと、おこらないでいただきたい。
 腹を立てるのは、もう何行かあとにしてもらいたいのである。
 まず、釣り場の風景がよろしい。あちらに、雪を被った槍ヶ岳の頂が見え、こちらに、焼岳が見えている。
 渓流の水は、ジンのごとくに澄み、仕掛けを流すたびに、きれいな水の中から次々と大きなイワナやアマゴがあがってくる(ここが腹を立てるところです)。
 すみません。
 すみません。
 心の中で、Aさんや、Kさんや、Iさんや、色々な釣り仲間にあやまっている。
 こんな大きな(二十四センチ)魚が、次々に釣れているとは、誰も知らないのである。
 釣っているのはぼくひとり。
 来る前日、仕事でKさんに会っている。
 「あさってねえ、実はある川でちょっと竿を出してしまうんですよ」
 Kさんに言ったら、
 「釣れたからって、電話くれなくていいですよ。他人が釣れた話は、腹が立つからなア」
 ごめんなさい。
 また釣れちゃいました。
 昨日のことを思い出しながら、今、この原稿を書いているところなのである。
 掃除の音が、少しくらいやかましくても我慢。
 業者の人が出入りしていて、落ちつかないけど、それも我慢。
 明日の朝、また釣りに行くことを思えば、そのくらいの辛抱はできるのである。
 ひとりの釣りも悪くない。
 今年も釣るぜ。


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