このところ、ずっと西域に行ってないことに気がついた。
以前は、毎年のように出かけていたのに、なんと六〜七年もあちらへ足を運んでないのである。近場でいうと、一九九八年か九年に、ネパールヒマラヤに出かけて以来、西域の空気を吸っていないことになる。
「これはいけない」
がたん、と椅子をぶっ倒して立ちあがってしまったのである。
行くぞ、西域。
行くぞ、シルクロード。
コースを決めた。
まず、北京へ飛び、ウルムチへ飛び、そこで一泊して、カシュガルに入る。
そこから、西域南道を通って西安まで、感覚的には西から東へもどってくるコースである。
西安──かつての唐の都、長安である。
この西安から、シルクロードは、西へ伸びている。
これが河西回廊である。
敦煌に至り、ほんとうにざっくりとした言い方になるが、シルクロードは、三っつのコースに分かれる。
一番北から、天山北路、天山南路、そして西域南道である。
天山北路は、天山山脈の北側を通っている。
天山南路は、天山山脈の南側──つまりタクラマカン砂漠の北側を通っている。
今回ぼくが選んだコースは、タクラマカン砂漠の南側──つまり崑崙山脈の北側を通る道である。
出発地とも言えるカシュガルは、これもざっくりとした言い方になるが、いったん三っつに分かれたシルクロードが、再びひとつになる都市である。
何故、このコースにしたか。
それは、まだ、ぼくが、一度も行ってないコースだからである。
カシュガル→ヤルカンド→ホータン→ニヤ→チェルチェン→チャルクリク→ミーラン→花土溝→敦煌→西安
日本を出てから帰るまで、およそ十五日間のコースである。
「こんど、シルクロードへ行くんですよ」
そういう話をしたら、
「おれも行きたい」
という人々が集まって、なんと六人のメンバーになってしまった。
絵師の寺田克也。
落語家の林家彦いち。
落語家の三遊亭白鳥。
辺境の写真師佐藤秀明。
モンベルの社長辰野勇。
お調子ものの作家夢枕獏(本人)。
以上六名である。
後半の敦煌からは、さらに二名が加わることとなった。
絵師の天野喜孝。
京都の陶芸家叶松谷。
まことに、統一感のない、凄いメンバーとなってしまったのである。
異業種交流会ともいえる顔ぶれで、実に楽しみな旅になりそうなのである。
いいぞ、シルクロード。
でも、たった十五日。
五月十七日に出発して、三十一日に帰ってくる。
駆け足である。
普通ならもう五日──のんびりいくなら十日はほしいところだ。
後半は、あのへディンが発見したさまよえる湖、ロプノールのすぐ南側を通るコースである。
某社でやっている小説『ダライ・ラマの密使』では、シャーロック・ホームズ氏がいるオアシス都市チャルクリクの取材もしてくるつもりなのである。
「いいなあ、ボクも行きたいなあ」
と言っていたのは、落語家の春風亭昇太である。
しかし、彼は、お芝居の仕事が入っていて、泣く泣く、ゆくのを断念した。
辰野さんは、この三月に、北海道で会い、この話をした。
「シルクロード、行くんですよ」
「おれも行きたい」
たちまち行く決心をして、参加となったのである。
「どうせ行くんなら──」
と、幾つかの仕事も舞い込んできた。
某誌(シルクロードものを連続してやる雑誌)にエッセイを書くことになった。
某TV局からは、
「映像を撮ってきてね」
とビデオカメラをあずかることになった。
個人的には、久しぶりにスチールカメラを持っていき、ある小説誌の表紙にするため「子供の写真」を撮ってこなくてはいけない。
しかし、それにしても、出発までにたくさんの仕事にケリをつけておかなくてはいけないことになった。
「仕事が終わんないよう」
寺田克也からは、悲鳴のような声があがっているのである。
でも──
行くぞ、シルクロード。
行くぞ、タクラマカン砂漠。
これまでは、独りでザックを背負ってうろうろするような旅の仕方をしてきた西域だが、始めから知り合いだけで行くシルクロードというのは、今回が初めてなのである。
旅の、あのひりひりするような孤独感や、不安、そういったものは薄まるであろうが、ぼくにとっては、まったく新しいスタイルの旅であり、おおいに楽しみにしているところなのである。
以前、チベットのチャンタン高原で歌を詠んだ。
チベット高原に現れいでて
こわすものなにもなし
ゴジラ寂しかろ
この名作を超える歌か句を作って帰ってこようと思っている。
一日一句。
帰ってきたら、この連載で、旅のあれこれをきっちり、御報告するつもりである。