夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第44回》〜シルクロード・西域南道をゆく〜  その2

文・夢枕 獏

 成田で皆と合流し、とりあえずチェックインして、ようやくほっとする。
 ここで、各自自由行動となり、飛行機の中で再び合流することになった。
 まだ朝食をすませていなかったので、ぼくは腹ごしらえをすることにした。しばらく日本食ともおわかれなので、とりあえず空港内の寿司屋に入る。
 シャリもネタも、・おわかれ寿司・としてはいただけない。久しぶりにうまくない寿司だったが、値段と場所を考えれば、こんなところだろうか。いそがしくて、昨日の発売日に買うことのできなかった『ヤングマガジン』『少年ジャンプ』『ビッグコミック・スピリッツ』を本屋で買い込み、さらに薄型の目覚まし時計を買って、中に入る。
 目覚まし時計は、こういう旅の必需品である。宿で何時間か早く起きて原稿を書かねばならないからである。宿に、時計がない場合や、あっても目覚ましの機能がなかったり、動いてなかったりするケースが考えられるからである。
 十時五十五分に出発。
 北京到着は、現地時間の十三時四〇分。
 およそ三時間四十五分のフライトである。時差(日本より一時間遅い)があるので、一時間得したような気分になる。
 久しぶりに北京に着いて驚いた。
 空港内に、ずい分と店が増えた。
 十年ほど前に来た時は、こんなに店はなく、もっと汚かった。トイレのきれいさと清潔さは、日本なみである。なんという変わりようであろうか。
 荷物を押しながら、レストランや店の前を通ると、
 「どうぞ、席ありますよ」
 従業員が声をかけてくる。
 袖をひきこそしなかったが、それに近い客ひきぶりである。
 我々五人が同じテーブルに座ることのできる店を捜していると、
 「ダイジョウブ」
 という店があった。
 案内されてゆくと、なんとそこはVIPルーム──個室であった。
 中に入って、ようやくほっとしたら、なんとチャージ料をとるというのである。
 その額、日本円にして、およそ四〇〇〇円ほど。
 中国と日本の物価の差を考えると、おそろしく高い。
 しかし、フライトの後で歩きまわっていた我々はもう、でかい荷を持って、店を捜してうろうろすることに疲れ果てており、
 「ここでいいんじゃないの」
 もう動くのは面倒であった。
 次のウルムチ行きの出発時間は十九時一〇分であり、それまで五時間近い時間を潰さねばならない。個室なら、ちょうどよい。
 「もし、万里の長城を見学したいのなら、タクシーで行って、出発時間までにもどることができますよ」
 ぼくはそう言ったのだが、行こうと言い出す者はひとりもなかった。
 飲みほうだいのお茶と、フルーツがちょっと、そして、ひまわりの種が、そのVIPルームで出たものの全てである。
 みんなから、二万円ずつ集め、彦いっちゃんと白鳥さんが、円から元への両替にいくことになった。
 両替からもどってきたふたりが、
 「たいへんなことになってますよ」
 そう言って、差し出してきたのは一万円札であった。
 「誰か、一万円よけいに出した人がいるんです」
 この時、全員が、その一万円はオレのだ、という眼つきをした。もちろんぼくもそのひとりなのだが、しかし誰がそう言ったところで、それを証明する方法はない。だから、誰も、それはオレのだとは口にはしない。
 「その一万円をまた両替して、それを五人でわけちゃいましょう」
 結局そういうことに話は落ちついた。
 「ホントはオレのだったんだけどなあ」
 「金には名前を書いとくべきでしたねえ」
 このような冗談が出るようになって、初顔合わせのメンバーたちは、ようやく互いの人となりを理解しはじめたのであった。
 というところで、一段落したわけなのだが、ここでぼくはたいへんなことに気がついたのである。
 カメラが壊れていたのだ。
 およそ十二年前、一九九三年にやったチベット、カイラスの旅以来、戸棚の中に置きっ放しにしていたニコンF4を今回十二年ぶりにぶら下げてきたのだが、どうにもピントが合わないのである。レンズではなく、ボディの方に欠陥があるのだ。ミラーからファインダーに至る間のどこかが、はずれてしまっているのである。ファインダーの像が歪む。おそらく、宅配便で、荷を送る際のどこかで、内部のネジがゆるんで、何かが動くかはずれるかしてしまったものらしい。
 横にしたり、逆さにしたりして、ボディを叩くと、一瞬、映像の歪みがとれるのだが、二枚、三枚撮ると、またファインダーの映像が歪んでしまうのである。
 ニコンの修理を、短時間でやってくれるところは、今回の旅のどこにもない。
 久しぶりに、たっぷり写真を撮ってやろうと燃えていたのだが、その気持ちに水を差されたかたちとなった。
 泣いているうちに、大阪から辰野さんが到着する時間となった。
 辰野さんをむかえにゆく前に、ぼくは原稿用紙を取り出して、さっそくそこに一筆書いた。
 ・中国では笛禁止です・
 「これを、ドアに貼っておきましょう」
 ぼくは言った。
 にやにやしているのは、佐藤さんだけである。
 他のメンバーは、この・笛禁止・の意味がわからないのである。
 「むかえに行ってきますので、佐藤さん説明しておいて下さい」
 言い残して、ぼくは個室を出た。
(つづく)


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