夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第52回》〜シルクロード・西域南道をゆく〜  その8

文・夢枕 獏

  夢枕 次はいよいよニヤなんだけどさあ。絶対に誰かが「ニヤでにやにや笑う」というダジャレを言いそうだよねえ。
  寺田 言いそうですねえ。
  夢枕 誰が一番先に言うか、賭けようか。
  寺田 おれは、辰野さんだと思いますけど。
  夢枕 じゃ、おれは佐藤さん。

 車の中の会話である。
  このところ、ダジャレが話の中心となることが多い。
  車の中では、お互いに・iPod・に入れてきたものを・聴かせっこ・することとなりぼくは森繁久彌の歌を寺田さんに聴かせたのである。
  『ゴンドラの唄』、『ああ玉杯に花うけて』等の名曲に、思わず寺田克也も涙なのであった。異国で聴く森繁は、意表をついて、いきなり心の深い部分に一撃をくらわすのでたまらない。
  ぼくは、寺田さんの入れてきた古今亭志ん潮の落語を聴く。
  志ん潮の落語は、リズムがあって、はきはきしていて、おもしろい。思わず笑いころげてしまう。
  そうこうしているうちに、車が停まる。
  後続の三号車のランクルの調子が悪く、ついてこられないのだ。
  路肩に車を停めて待っていると、二号車から辰野さんがやってきて、
  「今日はニヤだからって、ニヤニヤしちゃいけないよ」
  しばらく前に予言した通りのダジャレが出て、賭けはあっさりぼくの負け。
  「何を聴いているの。それよりもいいものを持ってきたからさ、これを聴いてよ」
  強引に、車のCDデッキに、辰野さんが自分の持ってきたCDを押し込んでゆく。
  曲は『遙かなるカイラス』──もちろん、辰野さんが笛を吹き、それを録音したものである。
   √遙かカイラス
    遠い空
  笛だけでCDに歌は入ってないのだが、辰野さんが曲に合わせて口ずさんだこの歌が、ずっと我々の脳内ソングとなり、旅の間、なにげないところでこの「遙かカイラス遠い空──」を口ずさんでいる自分に気がつくことになる。何げなくというところがおそろしい。
  三号車が動き出したので、また出発。
  途中に、田んぼを発見。
  崑崙山脈から流れてくる川を堰き止めて、砂漠の中のオアシスに田んぼを作り、そこで米を作っているのである。
  日本でいうなら、春の小川の風景が、いきなり、タクラマカン砂漠に出現したのである。
  「車を停めて下さい」
  運転手に声をかけて、車を降り.日本から持ってきた釣り道具を出した。
  たたむと二十四センチ、伸ばせば四・六メートルになる日本ののべ竿である。
  ミチイトは一号──ハリスは0.6号。浮子(うき)はタマウキ。ハリはヤマメ鉤の五号をつけ、エサは昆虫の幼虫をつける。
  さっそく、幅三メートルほどの川の深みにむかって、仕掛けを落とし込む。
  赤いタマウキが、ゆるゆると流れてゆく。
  しかし、アタリがさっぱりない。
  それほどエサが多い土地柄ではなく、魚がいれば喰ってくるであろうし、魚が小さければ、エサは呑み込めなくとも、ウキにそれらしい動きが出るはずである。
  それが、ない。
  あきらめて上流にゆく。
  と──そこに絶好のポイントがあった。
  水門があり、そこで水を堰き止めて、田へ水をひいているところだ。水門のすぐ下から、川はふたつに分かれて下っており、もう一方の川には、水がほとんど流れていない。
  その水門のすぐ上流の深場で、地元の男の人が釣りをしているのである。
  見れば、釣りをしている男の竿は、かなりぶっといルアーを投げるための竿である。その竿に糸を結び、浮子とエサをつけて釣っているのである。
  しかもなんと、時おり、男の仕掛けのトウガラシにアタリがあるではないか。
  しかし、アワせても、魚が掛からない。
  よく見ると、かなり大きなメジナ鉤である。
  そんな大きな魚がいるのか?
  ともあれ、ぼくは、仕掛けをかえ、鉤を三号にした。
  しかし、アタリがないのは同じだ。
  仕方がない。横で釣っている男性に声をかけ、エサを分けてもらうことにした。
  なんと、エサは小麦粉を練ったものである。
  日本だったら、タナゴねらいだ。
  さっそく、そのエサを小さな鉤につけてみたら、いきなりアタリがあった。
  釣れた。
  フナである。しかし、なんと小さいことか。六センチから七センチくらいのフナだ。しかし、どんなに小さかろうと、タクラマカン砂漠の釣りである。嬉しい。
  釣っていると、子供たちが寄ってきた。
  ペットボトルを手にしているので、見せてもらうと、フナがたくさん入っている。つまり、ペットボトルの口から入るくらい、魚が小さいということだ。ぼくの釣ったフナと大きさはあまりかわらない。話を聴けば、すぐ下の浅くなった川で、手づかみでとったものだという。
  釣った魚は、みんな子供たちにあげてしまい、男の人には、エサのお礼に、ぼくの持っている小さな鉤をあげることにした。
  「シェシェ」
  礼を言いながら驚いている。
  ウイグルの男性も、そんな小さな鉤は、初めて見たのであろう。
  竿をたたみながら、車へ向かって帰る途中、
  「笑顔が後ろにこぼれているよ」
  カメラを構えた佐藤さんが言った。
  マズラットルクウスタン。
  これが、その川の名前だ。
  (つづく)


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