文・夢枕 獏
砂漠公路の真ん中の、小さなドライブインのような場所──塔中(たちゅう)で食事。
「でんちゅうでござる」
佐藤さんの、ほとんどたれ流し状態のダジャレが出る。
皿に、うどんの如き麺を盛り、それにぶっかけ汁をかけて食べる。ウイグルでは、もうなれてきた食べものだ。
・焼きそば・とミナワさんが言ったものは、ペンネ(に似たもの)を炒めたもの。
ひた走りに砂漠の中を走って、夕刻、且未故城(チエモーグーチョン)へ着く。
砂漠の中の遺跡である。
かつて、紀元前8世紀から8世紀にかけて、この場所でチェルチェン川が流れていた頃栄えた古代都市だ。
川の流れが変わってしまったため、あっさり滅びてしまった。
今は、かつての家の土台の跡が残っているだけである。いかなる遺跡も、かつては栄えていて、今は滅びたものだ。
その遺跡の近くにあるザグンルク古墓群へ着いたのは、もう、陽が沈んでからである。
およそ三〇〇年前のものだ。
そのうちの24号墓は、掘りだしたままの墓の上に建物が建てられていて、14体の一族ミイラを、埋葬された当時のままのかたちで見ることができる。
縦穴の底に、女、子供、老人のミイラが横たわっている姿はなかなか凄い眺めである。
刺激的な光景だ。
死後の、こういう姿を、墓をあばいたままのかたちでみてしまってよいのかという思いが頭の中を走る。
ぼくだったらいやだ。
仰向けになったり、横を向いたり、いびつにゆがんだ身体や顔を、死後に人前にさらしたくない。
たとえ、死後三〇〇〇年がたっていてもである。
「写真を撮ってはいけません」
と、案内人が言った。
そこで、寺田克也画伯は、スケッチブックを取り出して、さっそくそのスケッチブックを描きはじめた。
この絵がまた、リアルで不気味でいい。
ほんとうに、寺田克也は絵がうまいのであった。
まあ、死んでしまえば、そこまでで、写真を撮られようが、スケッチされようが、本人は何も感じないと思うのだが、なかなか、自分の死後について考えさせられる体験であった。
チェルチェンの宿に入る。
風呂に入ろうとしたら、風呂場の取っ手がはずれて、尻もちをついてしまう。
折れ口で、腕に傷ができてしまった。
夜であり、もんくを言っても始まらない。
おとなしく、ミイラを思い出しながら眠る。
五月二十三日。
八時三〇分に眼が醒める。
顔を洗って、軽いストレッチをする。
十時に出発。
またまた二号車が動かない。
二号車を待ちながら、チェルチェン川で釣りをするも、ただ、赤茶けた土色の水が流れているばかりで、さっぱり釣れず。
「障害者の子たちを、ユーコン川にカヌーツーリングに連れていったことがあるんだよ」
と辰野さん。
いつもは車椅子に乗っている彼らも、カヌーに乗ってる時は、ほとんど健常者と変わらない。
「あの時の彼らを、ここへ連れてきてやりたいなあ。なにしろ、何時間もバスや車で移動をするので、トイレの問題をどうするかがポイントだろうなあ」
と辰野さん。
普通の町の公衆トイレは、車椅子が入れず、排便ができないからだ。
昼食は、ワジシャで。
ケバブと、ヤキソバと、うどん。みんなウイグル料理である。
かつて、瓦でにぎわった町だという。「ワジワジ」が、にぎやかという意味で、「シャ」が町──合わせてワジシャ。
また、走る。
どこまでも砂漠である。
こんなにたくさんの砂がどうしてあるのか。
いいことを思いついた。
今、地球温暖化現象で、何十年後かには北極や南極の氷が溶け、海水面が何十メートルもあがることになる。
モルジブなど、南太平洋の多くの島々がこれで沈むことになる。
ぼくは言った。
「中国は、このありあまる砂を、そういう島にボランティアであげたらどうだろう。いや、安く売ったって、かなりの収入になると思うんだけどなあ」
現実化には、多くの問題があると思うが、今のタンカーを改造すれば、かなりの砂や土が積めると思うのだが。
夕刻の六時三〇分に、チャルクリクに着く。
今回ガイドと通訳をやっていただいているもうひとりの女性、グリさんの実家がある町である。
かつて、ヘディンやスタインも訪れたこともある町である。
グリさんは、この日はホテルではなく、自宅で泊まることになっていて、いそいそとして落ちつかない。
「今夜は、家に来て下さい。ホテルでの食事はやめて、わたしの家で夕食にしましょう」
とグリさんは言った。
「ぜひ」
ということになり、我々は風呂に入って身を清め、暗くなった町をふらふらと歩きながら、グリさんの家に向かったのである。
いい月夜だった。
(つづく) |