夢枕 獏が綴る日常の気ままなエッセイ〜格闘的日常生活

《第56回》〜シルクロード・西域南道をゆく〜  その11

文・夢枕 獏

 ほこりっぽい道を通って、ホテルに到着。
 これまでは、日々の移動は、少なくて三〇〇キロ、多い時は、五一〇キロもあったのだが、この日は一番少ない九十八キロ。
 ホテルに荷物を置く。
 二年前にできたホテルだが、すでに築二〇年のホテルのように見える。
 床、便器、テーブル───部屋中が水びたしだった。
 にもかかわらず、水も湯も出ない。
 これこそが、かつての二〇年前ぼくが旅したシルクロードである。西域南道は、こういう道なのである。
 不便なことが、なんだか少し嬉しいのが不思議であった。
 ミーランの遺跡へゆく。
 広い砂漠の中に、点々と仏塔の残骸や、古城の土台や壁が残っている。
 一三〇〇年前、この国も、水によってオアシス都市として栄え、水が消えて滅びたのである。
 仏塔が、東、西、南と、遙か遠くに立っているのが見える。
 かつての桜蘭王国(鄙善国)の国都である伊循城(いじゅんじょう)の跡であると言われている。
 英国人の探検家スタインによって発見された。
 一九七〇年代の発掘調査で、チベット文字の書かれた木簡や、兵器が発見されている。
 周囲三〇八メートル。
 「スタインは、ここで発見したものを、みんな持ち帰ってしまいました」
 と、ミナワさんが言った。
 「でも、敦煌の時などはお金をはらっていますよね」
 「でも、このミーランでははらっていないのです」
 ミナワさんはちょと怒っている。
 それはもっともな怒りだが、文化大革命のおり、この国ではたくさんの遺跡や壁画が破壊されたり、多くの人が殺されていることを思うと、持ち去ったからこそ、次の時代に残されたものも少なくない。
 どちらがよかったのか。
 とてもひと口には答えられない問題なのであった。
 遺跡の中には、リンガ(シヴァ神のおちんちん)もある。
 これはもう、ヒンドゥ系の神サマである。
 「一九三〇年代に、スイス人の男女が敦煌からこのミーランに向かって出発しました。ふたりの死体は、あそこの仏塔の下で発見されました」
 ミナワさんは言った。
 今と違って、徒歩の旅だ。
 距離もとてつもない。
 水が無くなって死んだのか、盗賊に襲われて殺されたのか。
 どこにも陰影のない砂漠の中で、唯一、陰影のできるのが、この仏塔の下である。
 そこに、陽を避けて倒れ込み、そして死んでしまったのであろう。
 車だったら、あと三〇分で川のあるところまで行けたのに。
 「ここでは、水と、樹は、たいへん貴重なものだったのです。一三〇〇年前は、直径二〇センチの樹を切ると、罰金は馬一頭で、直径十五センチの樹を切った時は、罰金が牛一頭でした──」
 いやいや、一三〇〇年前から、たいへん過酷な場所であったのだなということが、わかるエピソードである。

 五月二十五日。
 朝九時に起きて、食事。
 毎朝ストレッチをしていたのだが、この日はできず。
 気力が少しすり減ってきているのである。
 十時に出発して、ミーラン川の横の道を車でのぼり、いよいよ崑崙山脈の東の端──アルティン山脈の中に入ってゆく。
 ウイグルの文化圏とは、これでサヨナラである。
 一九五〇年にできた道だ。
 本来のシルクロードからは、少しはずれることになる。
 かつて、玄奘が通ったと思われるコースは、今は、車で通るにはたいへん危険であるため、こちらのコースになったのである。
 馬やラクダや人が、歩いて作った道ではない。
 砂漠の中や山の中に、石油や鉱物資源が発見され、それを掘り出し、運び出すために人間が作った道なのである。
 ほとんど草木のない、枯れ果てた山だ。
 砂漠がそのまま上に盛りあがって凍りついたようにも思える。
 ほんとうに、川に沿ったところどころに緑の草や樹が見えるが、
 「あ、あれは人が植えたものですね」
 と、あっさり言われてしまったりする。
 巨大な谷へ下り、また、それを登ってゆく。
 遠くに見える山が、雪を被っている。
 今回は、前方に見えるあの雪が見えるあたりにある峠を越えることになっている。
 峠の標高、およそ四三〇〇メートル。
 峠には、まだ雪が残っている。
 一番高い場所で車を止める。
 白鳥さんが、少し元気がない。
 どうやら高山病にかかってしまったらしい。
 体内に取り込む酸素の量が減ると、人は誰でも高山病になる。
 ひとりだけ元気な辰野さんが、笛を取り出して、なんとこの標高の高い場所で笛を吹きはじめた。
 さすがは、もと山男である。
 (つづく)


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