文・夢枕 獏
塔西峠を下るにつれて、雪が消えてゆく。
たとえ雪が消えても、空気は乾いていて植物がほとんどないというのは同じである。
岩山であれ、砂漠であれ、標高の差はあってもこの地域の乾燥した風土は変わらない。
二七〇〇メートルまで下ったところで、食事をとる。
乾いた大地が四方に広がり、その向こうに岩山が聳(そび)えている。
ただただ広く、スケール感がもう半分麻痺しているのだが、それでもこの圧倒的な風景にはまいってしまう。
シートを敷いて、その上に座る。
リンゴ、生のキュウリ、トマトを囓り、ナンを食べ、それをビールで流し込む。
一時間ほど休み、出発。
灰色の山と、灰色の煙が向こうに見えてくる。
明らかに、人が削った岩山が見え、無数の煙筒と、壊れそうな小屋が見えてくる。
広い。
煙筒からは、いずれも煙が大量にあがっている。
空気の臭いが変化した。
昔、三〇年以上も前、ある工場で働いたことがあったが、その工場の内部も、これと同じ臭いがしていたことを思い出した。
強いて言うなら、
「腐りかけた石の粉の臭い」
だろうか。
「アスベスト鉱山です」
と、ミナワさんは言った。
ああ、そうか。
ぼくがバイトしていた工場では、確かにアスベストを使って建材を作っていたのである。
凄い風景だ。
山脈ひとつが、ほとんどアスベスト鉱山であり、そこで多くの人が働いている。
空気は濁っていて臭い。
「アスベストが、身体によくないことは知ってますか。肺ガンの原因になるって──」
「聴いたことはあります」
と、ミナワさんは言った。
「ここで働いている人たちは、そういうことを知っていますか」
「知らないと思います」
なんということか。
おそらく、二〇年後、三〇年後、ここで働いていたたくさんの人がアスベストの被害をその身に受けることになるであろう。
その時に、中国政府は、
「知らなかった」
ではすませられないであろう。
世界や日本で、これだけ問題になっている事柄であり、そういった情報は充分中国政府にも届いているだろうからだ。
中国は、北京オリンピックの前に、まだまだやることがあるのではないか。
花土溝(かどこう)に着く。
中国の古代史の中にはなかった街だ。
この地域で石油が出ることがわかり、それを掘るために道ができ、この街もできた。
大きな建物が、幾つも無人となり、放置されている。
普通の街の中にある入居者募集中の無人のビルではない。建ってはいるが、荒野のごとくに建物が荒れはてているのである。
タイルは落ち、窓ガラスは割れ、ドアははずれている。
昔は、石油がたくさん出ていたのだが、今は少なくなって、それで人口が減ってしまったためらしい。
八時に食事。
九時にベッドに入る。
五月二六日──
花土溝を出発して、敦煌へ向かう。
ただただ、ひたすら走る。
遠く、砂漠の向こうに祁連山(きれんざん)が見えてくる。
これが見えると、敦煌はあとひと息である。
だんだんと、周囲に緑の色が増えてゆく。
敦煌の街に入ったとたんに、砂ぼこりが消え、美しい緑の色があふれた。
「ブラボー」
「やった」
思わず声が出てしまう。
ホテルに入る。
「いらっしゃいませ」
と出むかえてくれたのは、なんと和服を着た女性であった。
中国人の女性が和服を着ているのだが、それだけ、日本人の観光客が多いということなのだろう。
これまでは、観光地ではない砂漠の旅であったのだが、いきなり大観光地に着いてしまったような気分である。
まさに、敦煌というのはそういう街なのであるが。
十八年前、一九八七年に敦煌には来たことがあった。
映画『敦煌』の撮影の最中であり、出演している西田敏行さんの部屋に遊びに行ったことがある。
その時のホテルがどこであったかは忘れてしまったが、そのおり、ぼくが泊まっていたホテルも、西田さんが泊まっていたホテルも、こんな立派なものではなかった。
もっと古くてほこりっぽく、砂漠の香りがしたような気がする。
西田さんの部屋には、シルクロードの民族楽器や、絨毯など、こちらで買ったものがあちこちに並べられ、異国の民家の主の部屋へ遊びに行ったような趣があった。
「いつも、妙なところで会いますねえ」
そういう話をした。
以前に西田さんと会ったのは、ネパールのカトマンドゥ(この時西田さんは『植村直己物語』の撮影でやってきていたのである)であった。トレッキングでカトマンドゥに入っていて、偶然に出会ったのだ。エベレストから帰ってきたばかりで、西田さんは陽にやけ、みごとに痩せて精悍な顔をしていた。
その十八年前のことを思うと、なんと敦煌もかわってしまったことか。
このホテルで、我々は、日本からやってきた天野嘉孝さんと叶道夫さんに合流したのである。
(つづく) |