文・夢枕 獏
その日の夕刻──
鳴沙山(めいさざん)へゆく。
十八年前、夕刻にやってきた時は、実によい思いをした場所であった。
たとえば何頭かいるラクダのうち一頭に乗って、ゆらゆらと出かけてゆくと、月が出てくる。昼の熱気が嘘のようにおだやかになって、空がずんずん深く濃く澄んでゆく。
そして、鳴沙山のふもとに着くと、そこに、なんとも細い、猫の爪のごときかたちをした月牙泉(げつがせん)という池があるのだ。
この話を、以前に天野さんにしたら、ぜひ行きたいと言っていたのである。
今回行ってみたら驚いた。
なんと、道の途中に巨大な門ができており、そこで入場料をとっているのである。
門をくぐったら、またびっくり。
観光客だらけで、ラクダが百頭近くもいるではないか。
しかも、あちらでは、サンドバギーで鳴沙山に登っている者たちまでいるのである。
ラクダには番号がついており、もちろん有料でそのラクダに乗ることができるのだ。
ともあれ、ラクダに乗ってゆく。
辰野さんは、明日、帰ってしまうので、この鳴沙山が、辰野さんにとっては我々との最後のイベントとなる。
辰野さんは、ラクダの上で笛を吹きはじめた。
ラクダは馬と違って、揺れ方に独特のものがあり、両手を鞍や手綱から離して笛を吹くのはかなりたいへんなのだが、さすがに岩壁を専門にやっていたクライマーだけあって、バランスをとるのがうまい。
曲は「月の砂漠」である。
途中、またもやびっくりしたのは、コンクリートで造られた人工の池ができていたことである。池というより、巨大なプールだ。
鳴沙山が、なんとも味けない風景となってしまった。
ふもとでラクダを降りると、またもやそこにお金をとるシステムができあがっていた。
鳴沙山の上まで、レールが敷いてあり、そこにトロッコのようなものがあって、有料で、人を上まで運んでくれるのである。
我々は、それに乗るのを拒否して歩き出した。
これがしんどい。
山男の辰野さんが先頭で、その後に我々が続いたのだが、距離がどんどん開いてしまう。
一歩歩くと、砂が崩れて半歩以上もどってしまうのである。
辰野、寺田、彦いちの三名が先行し、その次にぼく、ぼくの後ろに残り四名が続くかたちとなった。
意地になって登ったのだが、ついに頂上近くで休むことにした。登っても登っても頂上はすぐそこに見える。それでだまされてついつい登ってしまったのである。
しかし、気分はよかった。
登っている間に陽が沈み、美しい月が出た。
これで、ようやく旅のひとくぎりがついた気がした。
五月二十七日
朝、ホテル前に集まった。
日本へ帰る辰野さんと別れを惜しみ、我々はマイクロバスで莫高窟(ばっこうくつ)へと向かう。
NHKの『シルクロード』で、日本ではあまりにも有名になった千仏洞(せんぶつどう)がある。
さすがに凄いが多くの解説文や本が出ているので、あえて触れない。
ただ、土産品屋の近くを通ると、
「バイアグラあるよ」
「バイアグラ、ほしいか」
何度も声をかけられた。
もちろん日本語である。
売っているのは、もちろん・中国製バイアグラ・である。
中国は、観光客が集まる場所に、全ての銭になるシステムを導入したかのようである。
観光客から、とれるだけ金をとってやるぞという声が聴こえてきそうであった。
食事をして、午後から、陽関(ようかん)と玉門関(ぎょくもんかん)へゆく。
シルクロードは、西安から西へ向かう河西回廊を通って敦煌へとたどり着く。
その敦煌から先は、シルクロードはタクラマカン砂漠にぶつかって、道がふたつに分かれることになる。
ひとつが、タクラマカン砂漠の北を通る道──天山南路である。
もうひとつが、タクラマカン砂漠の南側を通る道──西域南道である。
我々は、この道を西から東へと向かい、敦煌までたどりついている。
陽関は、西域南道へと続く道にあり、玉門関は、天山南路へと続く道にある。
陽は、男性の象徴であり、玉門は女性性器を表す言葉だ。その名の通り、陽関は、高い山の上であり、玉門関は平地にあって、しかもその門の形が女性性器に似ているのである。
陽関は、王維(おうい)の詩で有名である。
渭城の朝雨 軽塵をうるおし(いじょうのちょううけいじんをうるおし)
客舎 青青柳色新たなり(かくしゃせいせいりゅうしょくあらたなり)
君に勧む更に尽くせ一杯の酒(きみにすすむさらにつくせいっぱいのさけ)
西のかた陽関を出づれば故人無からん(にしのかたようかんをいづればこじんなからん)
友人との別れの詩だ。
陽関を出て西へ行くというのは、もう、漢の文化圏ではないところへ行くということだ。砂漠の道であり、馬や人の白骨を標(しるべ)とする道である。毒蛇、悪鬼、盗賊もいる。一度出たら、生きてもどれぬかもしれぬ旅である。
今生の別れ──
そういう詩である。
そこへ、我々は出かけて行ったのである。
(つづく) |