文・夢枕 獏
玉門関(ぎょくもんかん)のあるあたりが、ちょうど、現存する万里の長城の西の端にあたる。
長城は、風化して、高くても人の身長くらいであり、低いところは人の膝ほどしかない。場合によってはそのまま砂漠の中に消えてしまっている。
そもそも、どうしてこのような長い長城の建設が可能であったのか。
それは、始皇帝などの絶対的権力者がいたからなのだが、砂漠にある長城の材料のほとんどが、周辺の土なのである。
周辺の土を運んできて、それを突きかためて、積みあげてゆく。もともと砂漠の土であったものが、二〇〇〇年の時を隔て、風化し、また砂漠に返ってゆく。何も残らない、はなはだ仏教的な風景であった。
「量の持つエネルギーって、ありますね」
莫高窟(ばっこうくつ)を見たおりの、寺田さんの言葉である。
そういう人のエネルギーが、自然にもどってゆく。
夜、敦煌の街に散歩に出る。
メンバーは、天野喜孝、寺田克也(かつや)、ぼくの三人である。
心配になったのか、敦煌の通訳の李(リー)さんが、
「わたしも一緒に行きます」
あわててついてきた。
市場に近い広い通りが、そのまま土産品売り場と化していて、そこら中に露天の店が並んでいる。
そこをひやかしながら歩いていると、版画を彫って売っている店があった。
板の表面を、墨で真っ黒に塗り、その上から彫ってゆく。彫ったところが白い線となって浮きあがる。
彫っているのは若い女性で、敦煌らしく、飛天を彫っているのだが、細かい線までがきちんと出て、美しい。
李さんに通訳をしてもらう。
「今、この場でその板に絵を描けば、それを彫ってくれますか」
「いいですよ」
という返事があったので、さっそく天野さんと寺田さんをそそのかした。
「ここで、絵を描いて、それを彫ってもらいましょう」
さっそく、天野さんと寺田さんが絵を描きはじめた。
板の黒い表面に、細いエンピツで描いてゆく。髪の毛一本ずつ、それこそ少女マンガのあの細かい髪の線まで彫ることのできる技術を持っているのである。
天野さんは、敦煌らしく、飛天が呼気を吐くと、その呼気がまた飛天となり、その飛天が呼気を吐くと、またそれが飛天となる──天野さんらしい絵である。
寺田さんは、これまたシルクロードらしく、キントウンに乗った悟空の絵である。
下描きなしで、ふたりがどんどん絵を描いてゆくうちに、いつの間にか周囲に人だかりができてしまった。
・あそこで日本人が、なんだか妙なことをやっているらしいぞ・
なにしろ、天野さんも寺田さんも、絵を描くために生まれてきたような人間であり、このふたりが敦煌で、並んでこんな風に絵を描いていると言っても、凄すぎて、すぐには信用してもらえないだろう。
とてつもない現場に居あわせている幸福を、しみじみと感じてしまった。
天野喜孝と寺田克也が、中国の敦煌で、並んで絵を描いているのだぜ。
なんとエキサイティングな夜であろうか。
できあがった絵を見て、彫り師の女性はうなった。
「これは、わたしじゃなくて、わたしの先生が彫った方がいいと思います」
その女性が、どこからか、いかにも芸術家といった雰囲気の男性を呼んできた。
聞けば、中国では、この道の第一人者であり、北京で個展を開き、ナントカという賞までもらっている凄い人だというではないか。
さっそく彫りはじめた。
手が速い。
常に彫刻刀を動かす方向は一定であり、板の方を動かしながら彫ってゆく。
「この睫毛の線だが、向こうの髪と重なっているが、どっちが手前なんだ」
毛と毛が重なっているのを、手前と向こうを彫り分けてゆくのである。
しかし、夜半過ぎても、まだ終わらない。
「ホテルはどこだ。明日の朝までに、二枚とも仕あげて持ってゆくよ。出発は何時なんだ──」
こうして、我々は、まだ彫り終わらないうちにホテルへとひきあげたのだが、翌朝、七時にみごとに絵が彫りあがって、ロビーに届けられていたのである。
敦煌の千仏洞(せんぶつどう)は、以前にも一度行っているので、今回の敦煌の一番のハイライトは、この絵が描かれ、彫られる現場にいたことである。
ほんとうに、絵というのは、できあがったものより、できあがりつつあるその現場に居ることの方がずっとおもしろいのである。
五月二十八日
いよいよ、今回の旅の終点、西安である。
敦煌から飛行機でいっきに飛んでしまった。
河西回廊(かせいかいろう)の上を飛んで西安に着く。
かつて、唐の時代は長安と呼ばれていた都市である。
日本からは、約一二〇〇年前、空海がやってきて、密教をまるごと盗みとっていった都市である。
その頃、長安にいたのが白楽天である。
天野さん、叶さんとは、楊貴妃をテーマに陶芸をやっているので、西安では、華清宮(かせいきゅう)と楊貴妃の墓のある馬嵬(ばかい)駅へ行くことになっているのである。
夜──
ギョーザ専門店で、三〇種ほどひたすらギョーザを食べる。
明日は、兵馬俑である。
(つづく)
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