文・夢枕 獏
五月二十九日──
前日、西安に着いたばかりだというのに、その日のうちに、青龍寺跡と興慶宮(こうけいきゅう)跡の公園へ行ってきたので、多少の疲れが残っている。
青龍寺は、かつて、空海が日本からやってきて、密教を学んでいったところである。
興慶宮は、唐の時代、玄宗皇帝が楊貴妃と幾度となく宴会などを催した宮殿のあった場所で、今は公園になっている。
そこに建てられている、阿部仲麻呂の碑を見てきたのだ。
仲麻呂は、玄宗と楊貴妃のパーティにも幾度となく出席していたはずであり、この興慶宮にも足を運んでいることは間違いない。
遣唐使として唐へやってきて、なまじ能力があったために出世して、日本へ帰してもらえなかったのだ。
詩人の李白や王維(おうい)とは友人で、李白とはとくに仲がよかった。
仲麻呂が、ようやく日本へ帰るチャンスをつかんだのは五十六歳の時である。
ちょうど日本に帰る遣唐使船があって、それに乗って、一時帰国ということなら、
「帰ってよろしい」
ということになった。
この、仲麻呂が帰国しようとした船(全部で四隻あった)のうちの一隻に、あの鑑真和上も乗っていたのである。
しかし、帰路、海上で嵐にあい、仲麻呂の乗った船は今のベトナムまで流されてしまった。
仲麻呂の乗った船が嵐にあって行方がしれないという知らせは、李白のもとにも届いた。李白は、仲麻呂が死んだと思って、次のような詩を作った。
日本の晁卿(ちょうけい)(仲麻呂のこと)帝都を辞し
征帆一片蓬壺(せいはんいっぺんほうこ)を遶(めぐ)る
明日帰らず碧海(へきかい)に沈み
白雲愁色蒼梧(そうご)に満つ
王維もまた「秘書晁監(ちょうかん)の日本国に還(かえ)るを送る」という詩を残している。
李白は、仲麻呂が死んでしまったと思い込んだのだが、実は生きていて、前記したベトナムからなんとかまた長安までたどりつき、結局、その生涯を唐の国で終えたのである。
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に
出でし月かも
日本へ帰ろうとするおりに、仲麻呂が詠んだ歌である。
碑には、この歌と、この歌の中国語訳が刻まれている。
翹首望東天(こうべをめぐらせ東天を望む)
神馳奈良辺(こころはなすならのあたり)
三笠山頂上(みかさのやまいただきのうえ)
想又皎月圓(またこうげつのまどかなるを思う)
中国語訳も、なかなかの名作である。
そういう所へ行っているうちに半日が過ぎて、あっという間に夜の食事となってしまったのが、昨日のことだったのである。
この日は、大雁塔、博物館、始皇帝陵、華清池、兵馬俑坑と、ほぼ一日動き続けであった。
他の所は全て、二度目、三度目であったのだが、博物館は今回が初めてであった。
なかなか凄かったのは、京都の陶芸家の叶さんがいて、陶器や磁器の解説を、すぐ横でしてくれたことであった。
なにしろ、展示品の説明は中国語であり、ぼくにはほとんどわからないのだが、叶さんが教えてくれるのだ。
「あ、この器は、どの時代のこういうもので、こういったテクニックで作られてるんですよ。日本でいえば、これこれこのようなものに影響を与えているんですね」
これがたいへんタメになったのである。
五月三十日は、チャーターした車で、馬嵬(ばかい)駅にある楊貴妃の墓まで出かけて行った。
これは、以前に書いた通り、天野さん、叶さんと一緒にやっている「楊貴妃をテーマにした器作り」のための取材である。
楊貴妃は、名を楊玉環(ようぎょくかん)といった。
もともとは、玄宗皇帝の息子、寿王の妃であった女性である。
てっとり早く言えば、王である父親が、権力で、自分の息子の嫁を、自分の妻にしてしまったということである。
なにしろ、三十四も歳がはなれている。
本当の愛情関係があったのかどうか。
楊貴妃がたいへん美しい女性であったのは間違いないが、白楽天の詩に描かれたような愛情関係はなかったのではないか。
客観的に見て、玄宗は、名君であった。
しかし、それは、楊貴妃と出会うまでのことであり、楊貴妃と一緒になってからは、玄宗はこの女性の関心を得るために生きることとなり、あちこちに宮殿を建て、そこに、楊貴妃の好きな牡丹の花を、三万本も植えさせたりした。
政治は、楊貴妃の兄の楊国忠におまかせっきりとなり、世は乱れ、ついに反乱がおこって、玄宗皇帝は、楊貴妃と共に、長安を逃げ出したのである。
このメンバーの中に、日本人阿部仲麻呂もまざっていた。
逃げて、ようやく馬嵬駅までやってきた時、今度は、部下の兵たちが反乱を起こした。
「楊貴妃を殺さなければ、もう、皇帝の面倒はみきれない」
というのである。
そして、とうとう楊貴妃は、この馬嵬駅で殺されてしまうのである。
あの天下の美女と言われた人物の墓としては、まことにつつましやかな、小さな墓であった。
ここで、ぼくは楊貴妃の物語でもあった『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』が完成したことを報告し、長安(西安)にもどって行ったのである。
五月三十一日──帰国。
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