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お気楽派

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●《第三十回》アブダビコンバットに行ってきたぞ その1
●《第二十九回》困ったものである 
●《第二十八回》トルコ交信曲(後編) 
●《第二十七回》トルコ交信曲(前編) 
●《第二十六回》K‐1を観にゆき 世界平和について 考えている 
●《第二十五回》演出の魔術 
●《第二十四回》雅楽からシュートボクシング 
●《第二十三回》北国行感傷旅行 
●《第二十二回》今、万札を燃やしているのです 
●《第二十一回》このお金、原稿料からひいて下さい 
●《第二十回》玉三郎、天野喜孝と土をいぢって遊んだぞ 
●《第十九回》ビッグ・サーモンはおれのものだ 
●《第十八回》玉三郎、パンクラスどちらも必見だぜ! 
●《第十七回》鮎がおかしいぞ 
●《第十六回》 阿寒湖のアメマス釣り 
●《第十五回》 歌舞伎座から日本武道館まで 
●《第十四回》 出生率低下なるも北斗旗おもしろし 
●《第十三回》 陶芸にはまっとります 
●《第十二回》 おれは哀しいぞ 
●《第十一回》 北方謙三とワインを飲む 
●《第十回》 猪木引退の日に―― 
●《第九回》 最終小説 
●《第八回》 中井祐樹という格闘家(後編)
●《第七回》 中井祐樹という格闘家(前編)
●《第六回》 格闘技の現在形
●《第五回》 釣り助平軍団、ワカサギ隊
●《第四回》 心揺らしながらアルティメット
●《第三回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(後編)
●《第二回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(前編)
●《第一回》 ヒマラヤの屍体


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お気楽派

《第十三回》陶芸にはまっとります

 陶芸にはまってしまった。
  かねてより、この陶芸については聴きおよんでいた。 “手を出すとたいへんなことになるよ” “あれは地獄道だよ” “あともどりできないよ” “人生最後のコーナーで待っている趣味だなア、あれは” “釣りと陶芸、これが人生最後の趣味だよ”  
  どれもその通りであった。  
  しかもぼくは、釣りも陶芸も、ふたつながらどつぼにはまってしまっている。さらには格闘技を観るということにも心を騒がせている。  
  仕事は小説家――つまり自由業である。  
  その気になれば、締め切りなどはいくらでもすっぽかして、この地獄道に入り込んでゆくことができるのである。  
  あげくの果てに原稿の注文は来なくなり、本は売れなくなって、家族は離散、ぼくはどこかの道端で野垂れ死に――ああ、それも結構じゃないの。自分で自分の骨壷を焼いて、それを背負って野垂れ死にでも何でもしてやろうじゃないの。  
  そうなったらなったで、ああ、なんとすがすがしい――  
  などと思いはじめている自分がいるのである。  
  その自覚症状があるのである。  
  ああ、なんとおそろしいことでありましょうか。  
  土をいじったりこねたりするというのは、子供の頃にもやっている。それを大人になってからやるということは、土と一緒に理屈もこねることになるのである。  
  土がどうのとか、釉薬がどうのとか、酸化、還元、穴窯、登り窯、ガス窯、様々な選択肢が、この地獄の陶芸道にはあるのであり、その複雑さがまた奥深さとなって、魅力を増すのである。  
  ぼくはと言えば、十年くらい前にこの道にはまった。  
  友人の、住職が、自分の寺で焼き物をやっていて、そこで土をいじらせてもらったのが始まりである。  
  土をいじるというのは、なかなかお手軽そうであり、格好もいい。作家が、余技で焼き物をやっているというのは、はた目にもらしくて、絵になりそうである。  
  なあに、技術なんぞなくとも、ごまかしがききそうだし、腕のまずさは、火でカバーすればいいんじゃないの。火がなんとかしてくれるよ、火が……  
  と思い込んでしまったのが、今思いおこせば地獄道の始まりなのであった。  
  言っとくが、今書いたことは、全て、大きな間違いである。  
  もし、あなたが、今、ぼくが書いたようなことを理由にして、陶芸という魔道に足を踏み入れようとしているのなら、ただちにやめることをおすすめしておく。  
  陶芸を始める人々は、みんな、どうせ、ぼくと似たりよったりの理由で始めたに決まっているであろうからである。  
  あらゆる知識を仕込み、計算をしぬいて、努力に努力を重ねたそのあげくに、ようやく、火の神は、ほんの少しだけ微笑んで下さるのである。  
  ともあれ――  
  現在、陶芸がブームであるらしい。  
  あちらこちらの雑誌で陶芸が特集され、専門誌も出、若者向けの雑誌でも、女をくどくのは車やファッションじゃないぜ、陶芸だぜと叫んでいるのである――わきゃないか。とにかく、陶芸がブームであるというのは事実らしい。  
  ぼくの周囲の友人も、陶芸にはまり込んでいる人たちが多く、そのうちの何人かはぼくがはめてしまった人である。  
  つい先日も、絵師の天野喜孝さん、作詞家の松本隆さんが、ぼくの釣り小屋にやってきて、陶芸にはまってしまったのである。  
  ぼくは、ある県の山中に、前記釣り小屋を建てたのだが、そこに、なんとロクロだの、ガス窯などを入れて、いつでも土をいじって焼けるようにしてしまったのである。  
  見ていると、天野さんは、次々と自分のセンスで土をこね、セオリー無視で、おもしろい物を作ってゆく。  
  土をダンゴ状に丸め、その中心に真上から指で穴をあけ、その穴を広げていって茶碗などを作るという掘り出し方と呼ばれる技法があるのだが、これをやっている最中に、天野さんは、碗を作らずに成りゆきのままアカエイ型の刺身皿を作ってしまったのである。皿の表面には、小さな人の顔らしきものが無数にあるという、なんだかとんでもないものだ。  
  しかも短い時間に、あれもこれもといっぱい作ってしまったのである。  
  松本さんは、きっちりと、ただひとつの茶碗のみに全ての時間をかけ、集中して、これまた色けのある茶碗のかたちを作ってしまったのである。  
  なかなか、初めてでこうはいかない。 「これはおもしろい」 「またやりましょう」  
  ふたりともすっかりその気になっており、 「どこに行けば材料は手に入りますか」 「あのガス窯は幾らぐらいするんですか」  
  なんと、自らの家に、陶芸の設備を整えてしまおうという勢いなのである。  
  実は、手でもって、土をこね、かたちを作るというのは、陶芸と呼ばれる全体の中ではごくごくわずかな一部を占めるだけであり、この後が本当はたいへんなのだが、もちろんぼくはそんなことを言って、つまらない忠告などはしないのである。 “けけけっ、これでまた地獄行きの人間がふたり増えてしまったなァ”  
  喜んでいるのである。  
  だはははは。  
  こうなってくると、自分で選べる人生最後の趣味というか、それは陶芸でも釣りでもなくて、まだひとつ、ラストに残っていることに気がついたぞ。  
  それは、めんどうになったら、みんな捨てて放り出し、フーテンの寅さんになってしまうことである。  
  いざとなったらこの手があるというのは、なかなか心強いではないか。  
  安心して、ここしばらくは土をいじることに夢中になることにしよう。

 

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