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《第三回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(後編) |
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まことに、人間、いつ何時災難に遭うかわかったものではありません。
四十六歳になって、初めて泊まったお宅で、おねしょをしてしまうということなどは、
そのよい例と言えましょう。
私の友人に、三〇代の妙齢(でもないか)の御婦人がいるのでございますが、この御婦人も
とんでもない目に遭った方でございます。
彼女、あるおりにさる業界のパーティーに出席することになり、出かける前にいつもよ
り念入りにお化粧をし、素敵な服に身を包み、宝石のひとつふたつもあしらって、踵の高
い靴を履いて家を出たのでありました。ところが、お化粧に時間がかかりすぎて、駅に着
いたのは電車の発車間際となってしまったのでありました。
この時、なんとその御婦人、思わず、「だーっ!」
と声をあげて改札からホームを駆け抜けドアが閉まる寸前の電車に飛び乗って、
「でーっ、間に合ったぜ、ザマーミロ!」
閉まったドアを前にして、大声で叫んでしまったというのでございます。
ああ――
人生、一寸先は闇。
このこと、私、今はよくわかります。
さて、前回からの続きでございますが、私、暗い寝床の中で、ついおもらしをしてしま
った自分の運命について、必死で考えておりました。
どうするか。私の結論はただひとつしかありませんでした。
自己申告をする――自ら、自分のしでかした粗相を告白するという以外に方法はありま
せん。
同じ恥ずかしい思いをするにしても、これが一番よい方法です。一番みっともないのは
隠そうとしたり、知らぬふりをしようとしたりして、そのあげくに見つかってしまうこと
であります。
では、どのようなタイミングで、どのような言葉をもって申告するか。これまた、私は
大きな問題に直面してしまったのでした。
それは今でしょうか?
いいえ、今ではありません。眠っている友人たちを夜半に起こして、おねしょの話など
できるものではありません。
翌朝、この朝に起きたときに言うしかございません。それも、できるだけ早いうちに言
わねばなりません。寝床の中で、しばらく世間話などして、だいぶ時間が経ってからいう
のでは間が抜けております。
それだけのことを決め、私、暗闇の中で起き出して、ごそごそとバッグの中から新しい
下着とTシャツを取り出し、寒いトイレで哀しい着替えをすませたのでありました。
四十六歳にして、自分のおねしょの後始末をすることになろうとは、これまで思ってみ
たこともありまでんでしたが、体験してみれば、そこにはしみじみとした哀感と、そして、
哀しい感動があるのでございました。
ついにおれも老いが始まったか――
そのような言葉が、頭の中に浮かんだりいたします。
さて、着替えを済ませ、寝床に戻った時、私は、自分がまたもや新たなる闘いに直面
し たのを知ったのでございました。再び潜り込もうとしていた布団の中は、濡れて冷たく、
潜り込めば、せっかく新しくした下着やシャツが、またもやおしっこで濡れてしまうこと
になります。ああ、天はどうして次々と主人公に難題をつきつけてくるのでしょう。
最初、自分で出したおしっこに私がすぐに気がつかなかったのは、それが、自分の体温
と同じだったからです。
温かいおしっこは、それはそれで妙になつかしく、心あたたまるものがあったのですが、
冷たいおしっこはまさに悪夢でございます。
私は、ともかく、端からお布団の中に潜り込み、濡れたシーツをぐるぐると布団の中で
丸めて横へずらし、お尻を横へ曲げるという、変則的眠りポーズをとって、哀しく浅い眠
りについたのでした。
朝、六時のラジオ天気予報で、我々は目覚めました。 「今日の天気はどうかなあ」
「波は高いみたいだね」
などという話が、ぼそぼそと寝床の中で始まり、その会話に私も参加いたしました。
心の中では、早く、今、自分の身にふりかかったことを言わねばと思っているのですが、
なかなかそのタイミングがつかめません。しかし、このタイミングをはずしてしまったら
たいへんです。二分、三分と時間がすぎてゆくうちに、ひとり、ふたりと寝床を抜けだし
て布団をたたみ始めました。これはもう、覚悟を決めねばなりません。 「いや、おれ、ちょっとあやまらなければいけないことがあるんですよ」
と、私はYさんに言いました。 「実は、夜、寝ているあいだにおしっこしちゃったんです」
いきなりこう言われても、すぐに状況が伝わるものではありません。 「え?」
と問われても、これは問うた人を責めるわけにはゆきません。
私、結局、三回も同じ言葉をその時くり返すことになってしまったのでした。
ほんとに、運命は、人にいろいろな試練を与えるものでございます。
私の告白を聞いた友人たちの反応は、あたたかく、優しいものでした。 「昨夜、飲みすぎたみたいだったからね」
「いっぱい飲んじゃったの?」
私のせいではなく、お酒のせいにしてくれるのでした。しかし、強い決心をして告白を
した私は、お酒のせいにするというのを、潔しとしませんでした。 「いつもは、もっといっぱい飲んでもこんなことないんだけどなあ――」
なぜか人は、こういう時にカタクナになってしまう生き物のようでございます。
その朝、私は、風呂場で濡れたシーツを洗い、ベランダにそれを干しながら、人はだん
だんこうやって歳をとってゆくのだなあ、これが自分の老いを実感した記念すべき朝とな
るのかなあ、などと思ったりしたのでした。
この私の告白によりまして、 「あ、おれも同じ体験をしたぞ」
とか、 「俺はもっと凄いぞ。なにしろ、布団で脱糞をしてしまったのだからな」
などという方が現れ、 「よく告白した。おかげでおれは勇気づけられたぞ」
という方が少しでもいらっしゃってくれるのなら、私もここに自分の恥ずかしい体験を
書き記した甲斐があるというものでございます。
ともあれ、私の、感動的な体験の告白、本日これまでなのでございました。 |
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