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お気楽派

下のタイトルをクリックすると各エッセイを回覧できます
●《第三十回》アブダビコンバットに行ってきたぞ その1
●《第二十九回》困ったものである 
●《第二十八回》トルコ交信曲(後編) 
●《第二十七回》トルコ交信曲(前編) 
●《第二十六回》K‐1を観にゆき 世界平和について 考えている 
●《第二十五回》演出の魔術 
●《第二十四回》雅楽からシュートボクシング 
●《第二十三回》北国行感傷旅行 
●《第二十二回》今、万札を燃やしているのです 
●《第二十一回》このお金、原稿料からひいて下さい 
●《第二十回》玉三郎、天野喜孝と土をいぢって遊んだぞ 
●《第十九回》ビッグ・サーモンはおれのものだ 
●《第十八回》玉三郎、パンクラスどちらも必見だぜ! 
●《第十七回》鮎がおかしいぞ 
●《第十六回》 阿寒湖のアメマス釣り 
●《第十五回》 歌舞伎座から日本武道館まで 
●《第十四回》 出生率低下なるも北斗旗おもしろし 
●《第十三回》 陶芸にはまっとります 
●《第十二回》 おれは哀しいぞ 
●《第十一回》 北方謙三とワインを飲む 
●《第十回》 猪木引退の日に―― 
●《第九回》 最終小説 
●《第八回》 中井祐樹という格闘家(後編)
●《第七回》 中井祐樹という格闘家(前編)
●《第六回》 格闘技の現在形
●《第五回》 釣り助平軍団、ワカサギ隊
●《第四回》 心揺らしながらアルティメット
●《第三回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(後編)
●《第二回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(前編)
●《第一回》 ヒマラヤの屍体


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お気楽派

《第四回》 心揺らしながらアルティメット

  もう、昨年のことになるが、一九九七年の一二月二十二日に、ついにアルティメット大会が日本に上陸した。
  第一回大会の開催が、一九九四年の十一月十二日。場所はアメリカのデンバーであった。 日本での開催は初めてのことであり、数えて十六回目のアルティメットである。
  アルティメット――究極の闘い。ブラジルではバーリ・トゥードと呼ばれる試合方式が、 アメリカに渡ってこの名前となった。 “なんでもあり”というこの試合は、時間無制限で闘われ、ルールと言えば、禁止事項が ただふたつだけであった。
  噛みつかない。
  眼を抉らない。
  ノックアウトかギブアップで勝敗が決まる。
  このアルティメット、今でこそグローブを着用したり、様々に禁止事項が加えられてル ールが整備されていったが、当初は素の拳での殴り合いというシーンが見られ、特に仰向 けに倒れている相手へ馬乗りになって上から殴りつけるという、マウントポジションから の攻撃技が、観る者にもやる者にも強烈な印象を与えた。
  髪の毛を掴んでもよく、股間の急所を攻撃してもいいというところも(現在は禁止)凄か った。
  バーリ・トゥードの祖と言われている明治の柔道家で前田光世という人物がいる。別 名 コンデ・コマ。アメリカ、イギリスと海外へ出かけてゆき、無数の異種格闘技戦をやって、 ブラジルに永住。
  この男の取材でブラジルの格闘技“バレツーヅ”というものを捜している最中に、アメ リカでアルティメット大会が開催されるのを知って、そのことを、当時連載を持っていた 『格闘技通信』に書いたりもした。これが、おそらく、日本にアルティメットが活字で紹 介されたものの最初であったのではないか。
  ホリオン・グレイシーとは、一回大会の前から連絡を取り合っており、この流れの中で、 ぼくは“バレツーヅ”が格闘技の名前ではなく“バーリ・トゥード”というルールの名で あったことを知った。
  前田光世から直接柔術を学んだカーロス・グレーシーにも、ブラジルで会い、話を聴い た。カーロスは、高齢であり、会話も不自由であった。何度も前田の写真を見せ、問いか け、やっと会話ができた。その時、たった一言だけ言った彼の言葉は、 「おぼえてるとも、コンデ・コマのことは……」
  ただそれだけであった。
  カーロス、それから二カ月後にこの世を去った。
  ベレンまでゆき、前田光世の住んでいた家で娘さん(養子)に会い、墓にも行った。前 田光世が種を蒔いたブラジリアン柔術のブラジル選手権の試合もその折に観戦をし、会場 でヴァリッジ・イズマイウにインタビューもしたのである。
  アメリカまで、アルティメットを観にゆくこと三回。
  アルティメット大会のオフィシャルカメラマンである長尾さんと、アルティメットの本 まで出版した。
  このアルティメット大会が初めて日本で開催されるというのであれば、何をおいても駆 けつけねばならない。
 
  大道塾の長田賢一は、まだ動かない。
  加藤清尚は、後楽園ホールでの敗北をバネにして、アメリカに渡り、ついにキックで世 界チャンピオンになった。そのすぐ後に加藤は交通事故に遭い、死の一歩手前まで行った。 足の骨は一三〇以上のパーツに分かれて砕け、六センチ短くなった骨を手術と医者も驚く 回復力でもとの長さにもどした。三年かかって、加藤は今、復帰のためのトレーニングを している。
  選手として現役復帰するということは、加藤にとって、北斗旗出場だけではなく、上位 にまで入り込めるかどうか、あるいは優勝できるかどうかということである。
  加藤が北斗旗から遠ざかっている間に、北斗旗には次々と寝技が取り入れられるように なり、かつて加藤が活躍していた頃とは、北斗旗は別の競技になってしまっている。この 壁も、加藤は越えてゆかねばならない。なんという困難な道を加藤は選んでしまったのか。
  普通の感覚で言うなら、これはたいへんな作業であり、あきらめてしまうところだが、 復帰ということに全力を尽くし、努力をしぬき、それを試さずにあきらめてしまうわけに は絶対ゆかないであろう。おれだったら、泣いてもあきらめきれない。じたばたしぬ いて、 そのあげくの果てに、やはりだめであったら、その時、はじめて人は納得がゆくのである。
  結局、加藤が残っている。
  この加藤清尚と、ぼくはアルティメットを観にゆくつもりであった。
  最前列にチケットも用意してあったのだが、直前になって、日本テレビで、アルティメ ットの解説をやることになってしまった。
  最前列よりもなお前のかぶりつきで、パンクラスの高橋義生と一緒にアルティメットを 観ることができるというので、自分のチケットは知人にゆずり、当日、ぼくは解説席に座 った。
  この日、最高のできであったのは、フランク・シャムロックであった。わずか十四秒で あのジョン・ローバーに勝ったレスリングのオリンピック金メダリスト、ケビン・ジャク ソンの腕を極めて勝った。
  濃い十四秒であった。この十四秒の中に、ノー・ホールズ・バード(なんでもありの試 合のこと)におけるあらゆるものがぎっしりと詰まっていたように思う。
  トーナメントは、キングダムの桜庭和志が優勝した。そこに至るまでに、色々な事情が あったものの、これは桜庭の責任ではない。グレイシー系のブラジリアン柔術の黒帯を破 って、もぎとった勝利である。 「プロレスラーって、本当は強いんです」
  桜庭の試合後のコメントである。
  この日の桜庭にはそれを言う権利がある。
  試合数日前に出場が決まり、その中で勝ってのけたのだ。普段から濃い練習をしている のでなければ、こうはいかない。 “桜庭は強いよ”
  というのは、以前から聞いていたのだが、 ここまでやれる選手とは思ってもいなかった。 当然のように、ぼくは相手のマーカス・コナンの勝ちを予想していたのだが、それがみご とにはずれた。
  自分の不明を恥じる。
  桜庭はいい選手だ。
  このようにして、アルティメットの日本大会は終了したのだが、個人的な想いが様々に 交錯した日であった。
  ぼく自身も、ここまで来た以上は、もう観客からリタイヤできない。
  アルティメットも、加藤の試合も、それが続く限り、きちんと見届けたいと思っている。

 

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