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お気楽派

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●《第三十回》アブダビコンバットに行ってきたぞ その1
●《第二十九回》困ったものである 
●《第二十八回》トルコ交信曲(後編) 
●《第二十七回》トルコ交信曲(前編) 
●《第二十六回》K‐1を観にゆき 世界平和について 考えている 
●《第二十五回》演出の魔術 
●《第二十四回》雅楽からシュートボクシング 
●《第二十三回》北国行感傷旅行 
●《第二十二回》今、万札を燃やしているのです 
●《第二十一回》このお金、原稿料からひいて下さい 
●《第二十回》玉三郎、天野喜孝と土をいぢって遊んだぞ 
●《第十九回》ビッグ・サーモンはおれのものだ 
●《第十八回》玉三郎、パンクラスどちらも必見だぜ! 
●《第十七回》鮎がおかしいぞ 
●《第十六回》 阿寒湖のアメマス釣り 
●《第十五回》 歌舞伎座から日本武道館まで 
●《第十四回》 出生率低下なるも北斗旗おもしろし 
●《第十三回》 陶芸にはまっとります 
●《第十二回》 おれは哀しいぞ 
●《第十一回》 北方謙三とワインを飲む 
●《第十回》 猪木引退の日に―― 
●《第九回》 最終小説 
●《第八回》 中井祐樹という格闘家(後編)
●《第七回》 中井祐樹という格闘家(前編)
●《第六回》 格闘技の現在形
●《第五回》 釣り助平軍団、ワカサギ隊
●《第四回》 心揺らしながらアルティメット
●《第三回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(後編)
●《第二回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(前編)
●《第一回》 ヒマラヤの屍体


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お気楽派

《第十二回》おれは哀しいぞ

 最近、哀しい。
  このような書き出しで、今回は始めたい。
  何が哀しいのか。
  物忘れがひどくなった。会話の最中に、自分が何を言おうとしていたのかわからなくなってしまうことがあるのである。それが思い出せずに、わざと話を引き伸ばしながら、自分が何を言おうとしていたのか考えてしまうということが、よくあるのだ。
  それで思い出せばいいのだが、結局、十秒くらい前に考えていた話すべきことが何であったのか、わからずじまいということになってしまうのである。
  今回の原稿にしてからが、書くべきテーマは、始めから決まっていたのだが、今、それを思い出すことができないのである。先日観戦したパンクラスの試合を前振りにして、本命の話に入ってゆくつもりであったのだが、その本命の話が何であったかを思い出すことができなくなってしまったのである。
  たいへんによいアイデアであったのだが、ほんとに、これはどうなってしまったんだろう。苦しまぎれに、 “思い出せない”
  ということを枕に振って、それを今回のテーマにしてしまうことにしたのである。
  どうだ、なかなかとんでもない思考回路の動きによって、作家やエッセイストが原稿を書いているということが、よくわかったろう。
  ああ、いけないいけない。
  他の書き手もそうであろうなどと、思いつきで書くべきではない。少なくともこの自分はそうであると、正直に書かねばならない。
  さて、さらに書いておけば、次のようなことが、ごく日常的におこるのである。
  ぼくの仕事場は二階である。たとえば書いている最中に、ある資料が必要であったことを思い出し、それが下――つまり一階にあったことを思い出す。 “いかんいかん。あれが手元になければ原稿が書けないではないか”
  と、とんとんと階段を踏んで下へ降りてゆく。
  そして―― 「あ、おれ、今、どうして下に降りてきたんだろう」
  下に降りた途端に、自分がどうして下に降りてきたかを、きれいさっぱり、忘れ果ててしまっているのである。
  ひどい時には、用事の内容を忘れてしまっているだけでなく、用事があったことすら忘れてしまい、テレビなどをぼんやり眺め、仕事場にもどって仕事を始めたとたんに、 “あ、ここを書くには、あの資料が必要ではないか”
  さっきと同じ問題に直面して、そう言えば、しばらく前に同じことがあったなあ、ということに気づいて、愕然となったりするのである。
  このようなことが、よくあるのである。
  どうだ、おそろしいだろう。
  こういったことに加えて、この一年くらい前から、ぼくの肉体に顕著に現われてきた幾つかの現象がある。
  そのうちのひとつは、視力の衰えである。
  具体的に言うのなら、ぼくは日常的に眼鏡をかけて生活しているのだが、眼鏡をかけていると、近くのものがよく見えないのである。
  本などで言えば、両手で本を持って、腕をいっぱいに前に伸ばしたあたりでないと、ピントが合わないのである。もっと近くになると、視界がぼやけて、眼がたいへんに疲れるのである。
  釣りに行ったりすると、途中で鉤を代えようとする時に困ることになる。両手をいっぱいに伸ばした状態にすれば、ピントは合うのだが、細かい作業をするためには、映像が小さすぎるのである。
  それで、眼鏡に右手の人差し指をひっかけて下にずらし、レンズを通さずに、頭を下げて上眼づかいに手元を見つめながら仕掛けを作ることになる。 “あ、これ、子供の頃によく見たうちの爺さんの仕種じゃないか”
  知らないうちに、“おじいちゃん”のやっている動作をしている自分を発見して、驚いたり、しみじみしたりしているのである。
  視力だけではないぞ、体力も衰える。
  つまらない坂道で、やけに足が重かったり、腕の、脇の下あたりの筋肉が減って、そこの肉がぷよぷよになっているのに気づく。
  さらには、テレビを見ているのでもいいし、本を読んでいるのでもいい。友人と座って酒を飲んでいるのでもいい。
  ひとつの同じ姿勢をしばらく続けたあとに次の姿勢や動作に移ろうとした時に、すぐには身体が動き出さないのである。
  筋肉、骨、筋がすっかり堅くなっていて、こわばっている。それでも、脳は次の動作への指令を出しているので、肉体はその命令に反応しようとする。しかし、身体は動かない。スローモーションで、じわあっと身体を動かしてゆき、思わず、 「あーっ……」
  腹の底から、溜め息とも呻き声ともつかない声が洩れる。
  テレビや映画などで、老人が重いものを下ろした時に、腰を叩きながら洩らしてしまう、あの声である。
  知らないうちに、知識としてしか知らなかった老人の動き、声の出し方などを自分がしているのを知ると、これまた愕然となり、ああ、おれもとうとうそういう歳になってしまったのだなあと、これまたしみじみとした哀しさを背負ってしまうのである。
  ああ、人はこうやって歳をとってゆくのだなあ。
  初恋の相手のみっちゃんや、その次に好きになったさっちゃんも、みんな、今頃は今このおれが直面 しているこのようなことに直面しているのだろうなあ、なんだかこれはすごいことだなあ、他人に優しくしてあげなければなあ――
  などということを考えたりしてしまうのである。
  そして、おそろしいひとつの事実に、我々は直面するのである。
  視力や体力だけではない、精神の方も、当然ながら、柔軟性、弾力性を失ってきているのだろうなあ、ということに考えはたどりつくのである。
  そう言えば、思いあたることのひとつやふたつやみっつやよっつや……あれこれに思いあたることになる。
  頑固になってきている。
  他人のやっている何げない、いつもなら気にならないようなことに神経をとがらせたり、精神的な融通 が効かなくなってきているのである。 「あーっ」
  声が出てしまうのある。
  すまんすまん、つまらんことを主張して、あの時のおれは本当に馬鹿であった。
  ごめんなさい、あの時はゆずってやればいいたあいのないことで、言いあいをしてしまった、許してちょうだい。
  悪かった悪かった。あれもこれも、みんなおれが依怙地(えこじ)になって、あいつやこいつやそいつにメイワクをかけてしまったなあ。
  愚痴っぽくなってきてしまうのである。
  ああ、おれは、馬っ鹿だなあ――
  おーい、おいおい……。
  声をあげて泣いてしまうのである。
  たあいのないことで涙が出、どうでもいいようなことに哀しくなってしまい、首を吊りたくなってきてしまう――ほどのことじゃねえか。
  散る桜残る桜も散る桜
  パンクラスも船木もがんばれと、唐突ながらかようなメッセージを書いて、今回はここまでなのであった。

 

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