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お気楽派

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●《第三十回》アブダビコンバットに行ってきたぞ その1
●《第二十九回》困ったものである 
●《第二十八回》トルコ交信曲(後編) 
●《第二十七回》トルコ交信曲(前編) 
●《第二十六回》K‐1を観にゆき 世界平和について 考えている 
●《第二十五回》演出の魔術 
●《第二十四回》雅楽からシュートボクシング 
●《第二十三回》北国行感傷旅行 
●《第二十二回》今、万札を燃やしているのです 
●《第二十一回》このお金、原稿料からひいて下さい 
●《第二十回》玉三郎、天野喜孝と土をいぢって遊んだぞ 
●《第十九回》ビッグ・サーモンはおれのものだ 
●《第十八回》玉三郎、パンクラスどちらも必見だぜ! 
●《第十七回》鮎がおかしいぞ 
●《第十六回》 阿寒湖のアメマス釣り 
●《第十五回》 歌舞伎座から日本武道館まで 
●《第十四回》 出生率低下なるも北斗旗おもしろし 
●《第十三回》 陶芸にはまっとります 
●《第十二回》 おれは哀しいぞ 
●《第十一回》 北方謙三とワインを飲む 
●《第十回》 猪木引退の日に―― 
●《第九回》 最終小説 
●《第八回》 中井祐樹という格闘家(後編)
●《第七回》 中井祐樹という格闘家(前編)
●《第六回》 格闘技の現在形
●《第五回》 釣り助平軍団、ワカサギ隊
●《第四回》 心揺らしながらアルティメット
●《第三回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(後編)
●《第二回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(前編)
●《第一回》 ヒマラヤの屍体


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お気楽派

《第二十八回》トルコ交信曲(後編)

  さて――
 ミマール・シナンは、一四八八年に、トルコのカッパドキア地方の、カイセリという街に近い、アウルナスという村に生まれた。
 死んだのが一五八八年だからなんと一〇〇歳まで生きたことになる。
 当時のオスマントルコ帝国には強制徴用(デヴィシルメ)という制度があった。
 年に一度、外国人の子弟を集め、イスラム教徒に改宗させて親衛隊(イェニチェリ)として教育し、その才能にあった役職が与えられるというシステムである。
 シナンは、二十四歳の時に、このデヴィシルメによって、イェニチェリとなった。
 スレイマン大帝を中心にして、四人のスルタンに仕え、その生涯で四七七の建築作品に署名している。これらのすべてをシナン独りが最初から最後まで関わって造ったとは思えないから、幾つかは弟子に仕事をまかせ、自分は指示をして署名だけをしたという作品もあったはずだが、それにしても凄い数である。
 イェニチェリとなって、シナンはイスタンブールへと出てきた。
 イスタンブールは、かつて、ビザンチン帝国の時代はコンスタンチノープルと呼ばれ、長安からローマまで続くシルクロードの間では、最大の都であった。
 ここには、巨大なドーム状の建物――アヤソフィアがあった。
 ビザンチン帝国時代に建てられた、石造りの建物で、はじめはキリスト教の教会として使用されていたのだが、オスマン帝国に征服されて、コンスタンチノープルがイスタンブールとなった時に、イスラムのモスク(教会)として利用されるようになったものである。イスラム教徒たちは、内装のキリストのモザイク画などを漆喰で塗り込め、その上にイスラムの文様や、コーランの詩句などを描いた。
 シナンが見たのは、モスクとなったアヤソフィアである。
 ドームの直径三十一メートル。
 高さ五十六メートル。
 今から一五〇〇年ほど前――シナンの時代から数えても一〇〇〇年ほども前に、これだけの建造物をどうやって造ることができたのか。
 ぼくは、このアヤソフィアの中に、二度、入っている。
 人間が造ったこの巨大な空間に初めて足を踏み入れた時、心というよりは、肉の底深いところから立ち昇ってくる荘厳な思いは、一種の神秘体験に近い。
 一千年の歴史の重み、建築物としての芸術的な価値、それ以上に、単純に巨大なこと、大きいこと、それだけのことが、人の魂を震わせてしまうのである。
 空間の大きさというものは、物が存在して始めて認識されるというのが、肉体的な手触りとして理解できるのである。
 ただ、何もない空間を前にしただけでは、その空間の大きさがわからない。
 世界や宇宙を認識するのでさえも、そうである。遠くに山が見えて、始めて、人はその距離を見ることができるのであり、遠くに星や星雲があって、初めて人は宇宙の距離を認知することができるのである。
 建築というのは、まさにこの空間の芸術である。建築というのは、宇宙を囲うことによって、小宇宙を造ることである。
 シナンが、初めてこのアヤソフィアを眺めた時に、心に生じた感動の中には、空間、あるいは宇宙、あるいは神、という言葉までもが含まれていたに違いない。
 当時は、宇宙というのは、頭上に広がる半球のことであった。つまり、宇宙の立体表現を半球というかたちに求めるのは自然なことであったといえる。
 後に、シナンが造るドームが、この半球を頭上に宇宙をたちあげることにこだわり続けたことを考える時、シナンの最初の感動が宇宙や空間という概念と、深い部分で関わっていたと考えるのは、まるっきりの見当違いではあるまい。
 当時、この大地が球体であるということは、すでに知識人たちの間では知られていた事実である。
 シナンは、アヤソフィアより大きなモスクを造るということに執念を燃やし続け、ついに、八十七歳の時に、トルコのエディルネという街に、セミリエ・モスクという、アヤソフィアより大きなドームを持つモスクを造りあげてしまうのである。
 ひとりの男が、その生涯をかけて、ひとつの巨大なモスクを建てる話を小説にしてみたいのである。
 シナンの生まれ故郷であるアウルナス村に、今でもその生家が残っている。
 現在は、家の跡があるだけと聴いていたのだが、現地であちこちに問い合わせてみたら、当時のままでこそないが、まだ残っているとの話を聴いたのである。
 そこまで行ってみると、ぼろぼろで、無人となっており、風雨にもろにさらされている二階建ての小さな家であった。知らない人にとっては、雨ざらしのただのボロ家であり、家具も何もない。
 何度も修理された跡がある。
 家の下の路地を、牛や馬が歩き、その糞がいたるところに落ちている。
 勝手に中に入って、勝手に写真を撮ることができる。二階に上がってバルコニーから外を眺めていると、隣の家からひとりの爺さんがやってきた。
 シナンの生家を見に来たのだと話をすると、 「わしの七代前の爺さんは、シナンの知り合いだった」
 という。
 シナンがこの家にいたのは、一四八八年からの二十四年間であり、どうも計算が合わないのだが、それを言っても始まらない。 「おお、それは凄い」
 と、この地方でとれる野菜などの話を聞いて、このお爺ちゃんとは別れたのであった。何人かの村役場の人にシナンの話をうかがったのだが、誰に訊いても、 「シナンはイスラムであった」
 と答えが返ってくる。
 こちらの、事前の文献調査では、シナンははじめはキリスト教徒であり、デヴィシルメによってイェニチェリとなり、キリスト教からイスラム教に改宗したはずであった。何度もそのことを確認するのだが、いずれも、 「シナンははじめからイスラム教徒であったに決まっているではないか」
 と言うばかりである。
 この後、イスタンブールに行って、このことを確認すると、やはり、元キリスト教徒で正解であった。
 なにしろ、 “シナンはもともとイスラム”
 と言っていた人の中には、村役場の村長代理の人間もいたし、毎年、シナンの記念行事をやっている人間も、シナン記念館の人間もおり、おもわずこちらの調査ミスがあったのかと思いかけたのだが、事実はすでに書いた通りであったのである。
 まことに、地元の人間の身びいきには頭が下がってしまうのである。
 新聞や雑誌の“現地取材”の中にも、このようなケースは無数にありそうであり、 “現地の人から聴いた”
 という話が、必ずしもその通りではないことを、ここであらためて確認したのであった。新聞やテレビのニュースも、心してインプットした方がいい。
 イラク対アメリカの戦争などについても、どちらの国でも意図的に情報操作が行われているのは今や常識である。
 新聞やテレビの映像をあっさり信じないように自分もいましめようと思っている。
 ともあれ、百歳まで生きた、このパワフルな建築家シナンについては、いずれ一本の小説にするつもりである。


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