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《第十五回》歌舞伎座から日本武道館まで |
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死ぬほどいそがしい。
断っても断っても、細かい仕事が入り込んできて、結局、そのうちの幾つかをひきうけてしまう。
それでがんじがらめになっている。
これに加えて、プライベートでは、格闘技を観に行ったり、芝居を観に行ったり、釣りに行ったり、陶芸をやりに行ったり、お茶を習いに行ったり、お花を習いに行ったり、お柔術を習いに行ったり、おレイプを習いに行ったり、お盗みを習いに行ったりしているので、まったくもって自分の時間がないのである。いや、みんな自分の時間か。時間は、みんな、平等にある。誰でも二十四時間。こんなに平等なものは他にない。
しかし、何故、時間がない、などと表現してしまうのだろう。
これは、ある特定のことや、やりたいことを前提にしているからである。つまり、時間がない、というのは、“あることをやるための時間がない”ということなのだ。
あ、別にこれはあたりまえのことか。わざわざ書くほどのことじゃない。
ともあれ、この時間のない時に、わざわざ時間をやりくりして、歌舞伎座へ行ってきた。坂東玉三郎の「日本振袖始(にほんふりそではじめ)」を観るためである。平成十年六月大歌舞伎の夜の部である。夜の部は、他にも色々出しものはあったのだが、時間がないので、とにかく玉三郎だけはと思って、これだけを観に行ってきたのである。
徹夜の連続であり、眠っておらず、ふらふらになって歌舞伎座へたどりついたのだが、少し遅れてしまい、なんと玉三郎はもう舞台に立ってしまっているではないか。
くやしいことに、岩長姫(実は八岐大蛇(やまたのおろち))の出のシーンを見のがしてしまったのである。まことに、仕事がうらめしい。おれって、バカ。
ともかく、玉三郎の岩長姫が、八つの瓶(かめ)の酒を飲んでゆくシーンからぼくは観はじめたのだが、これが素晴らしい。
八つある瓶に、ある時は首を突っ込むようにして、ある時は舐めるようにして、次々に酒を飲んでゆくのだが、これがたっぷりと時間をとってみせてもらえるのである。
まず、玉三郎が美しい。美しいばかりでなく、本来は大蛇であるから、その大蛇である本性を、その美しさの中でみせてゆくのである。美しくて、なお妖しい。妖しいからさらに美しさが増してゆく。
ぼくは、これを見るのは二度目なのだが、前回は言葉にならなかったのが、今回は言葉になって、ぼくの内部に生まれてくるのである。
玉三郎を観る体験と、玉三郎を観るのと同時進行で、ぼくの内部に生まれてくる言葉を眺める体験と、ふたつながらの体験を同時にしてしまったのである。
まことに凄まじい体験であった。
なんと、官能的なシーンだったろう。
演出や、本来の意図を越えて、これはもはや、官能的なSEXシーンである。男と女が、とりおこなうあのひめやかな妖しい儀式を、大蛇の精である岩長姫が、瓶から酒を飲むという舞踏化された様式の中で、玉三郎が客に見せてしまうのである。極めて抽象化されたシーンとして、玉三郎がその官能的な所作や表情の中で、舞台上に現出させてしまうのである。
ぼくがそう見えたからといって、他の者にそう見ろとは言わないし、その必要もない。そう見えたのが、ぼくだけであったってかまわないし、むしろ、そのほうがぼくにとっては嬉しい。
もともと、八岐大蛇に対して我々が持っているイメージは、男である。男が、生贄の女を喰べる。
しかし、舞台上では、岩長姫という女の姿となって現れてくる。このあたり、玉三郎が、女ではなく、女形の歌舞伎役者であるという背景が、さらなる効果を舞台上に生んでいるのである。
玉三郎以外の他の女形の役者がやったら、こうはゆくまい。
続いて、本性を現した玉三郎が、蛇体となり、顔中に隈取りを塗って登場する。口を開けば、まっ赤な舌が見える。
精である岩長姫と、この蛇体との落差がまたよくて、次に機会があれば、もう一度、これは観にゆきたいのである。
ということで、それから、幾らも間を置かずに出かけて行ったのが、日本武道館、格闘技イベント“プライド3”である。
メインの高田対ストュージョンは、特筆すべきことはなかったが、桜庭和志対カーロス・ニュートン戦については、ぜひ書いておきたい。
これは素晴らしい試合であった。
しっかりした技術を持った人間どうしの試合が、いかにスリリングで、どきどきするかの最高の見本である。
この試合がなかったら、今回の興行自体が成立したかどうか。
桜庭も強い。
カーロスも強い。
桜庭が勝ったが、実力は拮抗しており、次にやったら、結果はわからない。
すぐにではなく、一年後くらいに、よいタイミングがあれば、ぜひともまた観たいカードである。
桜庭には、もっと、様々な相手との対戦チャンスを与えてやってもらいたいと思う。
関節のとりあいという地味なやりとりで、ここまでエキサイティングな試合もあるのである。
さらに書いておくなら、このクラスでは、平直之という逸材が、まだいることを忘れてはならない。
平は、もっともっと闘うチャンスをあたえられていい選手である。
平の年齢を考える時、残された時間は、もう、たくさんはない。
年内に一度、来年には二度か三度は、平に闘う機会があっていいのではないか。
世間の格闘技熱というか、格闘技ブームというか、そのようなものが、この半年くらい、トーンダウンしてきているような気がするが、こういう時期に、逸材を眠らせておく手はない。
まだまだ、格闘技界がやれることはあるはずである。
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