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お気楽派

下のタイトルをクリックすると各エッセイを回覧できます
●《第三十回》アブダビコンバットに行ってきたぞ その1
●《第二十九回》困ったものである 
●《第二十八回》トルコ交信曲(後編) 
●《第二十七回》トルコ交信曲(前編) 
●《第二十六回》K‐1を観にゆき 世界平和について 考えている 
●《第二十五回》演出の魔術 
●《第二十四回》雅楽からシュートボクシング 
●《第二十三回》北国行感傷旅行 
●《第二十二回》今、万札を燃やしているのです 
●《第二十一回》このお金、原稿料からひいて下さい 
●《第二十回》玉三郎、天野喜孝と土をいぢって遊んだぞ 
●《第十九回》ビッグ・サーモンはおれのものだ 
●《第十八回》玉三郎、パンクラスどちらも必見だぜ! 
●《第十七回》鮎がおかしいぞ 
●《第十六回》 阿寒湖のアメマス釣り 
●《第十五回》 歌舞伎座から日本武道館まで 
●《第十四回》 出生率低下なるも北斗旗おもしろし 
●《第十三回》 陶芸にはまっとります 
●《第十二回》 おれは哀しいぞ 
●《第十一回》 北方謙三とワインを飲む 
●《第十回》 猪木引退の日に―― 
●《第九回》 最終小説 
●《第八回》 中井祐樹という格闘家(後編)
●《第七回》 中井祐樹という格闘家(前編)
●《第六回》 格闘技の現在形
●《第五回》 釣り助平軍団、ワカサギ隊
●《第四回》 心揺らしながらアルティメット
●《第三回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(後編)
●《第二回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(前編)
●《第一回》 ヒマラヤの屍体


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お気楽派

《第八回》 中井祐樹という格闘家(後編)

 不勉強なので、はっきりしたことは書けないのだが、ジャケットを着た寝技ということ で、格闘技の歴史を眺めてみた時、それが一番発達したのは、近代に入ってからではない だろうか。
  私見で恐縮なのだが、これには、三つの流れがあるように思う。
  @ロシアで発達したサンボ。
  Aブラジルで発達した柔術。
  B日本で発達した高専柔術。
  このどれもが、日本という国が明治という時代に生んだ“柔道”を源流にしている。
  サンボは、ソビエト各地の伝統的な民族格闘技を集大成したものであるが、それ等の格 闘技には、ほとんど関節技が存在しなかったと言われている。
  一九〇九年に、オシエプコフというロシア人が、日本に来て講道館で六年柔道の修行を して国へ帰っている。このオシエプコフに、サンボという競技の創始者のひとりといって もいいハルラムビエフが柔道を学び、ここに、今日のサンボ競技が誕生してゆくのである。 ブラジリアン柔術は、講道館の前田光世がブラジルに渡り、一九一六年に、現地でカルロ ス・グレイシーに柔道を教えたのが始まりである。
  サンボの始まりが、“ディナモ”スポーツ協会において、この競技に興味を持った者が集 まって練習を始めた一九二三年とするならブラジリアン柔術の始まりは、一九二五年、カ ルロス・グレイシーが、リオ・デ・ジャネイロでグレイシー・ジュージツ・アカデミーを 開設した年である。
  高専柔道は、大正年間に入って、京都の武徳会を中心にして、世界に類を見ないほど寝 技が発達していったのだが、これが、くやしいことに、四時間ほども様々資料にあたった のだが、年代を特定することができなかった。
  おそらく、大正一〇年(一九二一年)を前後する時期であろうと思うのだが、そうする と、これらの三つの異様なる発達をとげたジャケット寝技システムは、ほとんど時を同じ くして始まったことになる。
  パンクラス、シューティング、大道塾、パンクレーション、アルティメット――これ等 の団体、競技、大会が、これまた歴史的には短いスパンの中で、次々と始まっていったこ とを思う時、なんとも不思議な感慨を覚えるのである。
  このように、空間的に離れた場所で、同時多発的に似た文化やことがらが発生する現象 を呼ぶ用語があったはずだが、残念ながら、今はその用語を思い出せない(シェルドレイ クの仮説・編集部注)。
  たとえば、ある地域の猿のグループが、海水でジャガイモを洗って食べることを始める と、別の地域でも、空間的に交流のない猿の集団が、このものを洗って食べるという行為 を始めるというのである。
  ともあれ、これは、そういう現象について書く原稿ではない。
  中井祐樹について書く原稿であった。
  中井祐樹という格闘家は、日本の高専柔道にそのルーツを持っているといってもいい。 高専柔道は、敗戦と共に、GHQによって禁止され、競技ができなくなっていったのだが、 これが、七帝柔道として生き残った。日本の、七つの大学を中心に競技が行なわれてきて おり、中井は北大でこの七帝柔道をやっていたのである。
  投げよりも、寝技に重きを置くこの柔道のスタイルは、投げを中心に発達していった柔 道が、その発展してゆく過程の中で捨てていったものである。その捨てていったものの中 に、武道としての柔道のエッセンスがあったのである。
  シューティングという、打撃ありのノンジャケット総合格闘技を体験し、再びジャケッ トを着た中井は、この武道柔道の最先端にいる格闘家であるといってもいい。
  もっとはっきり書いておけば、武道柔道というのは、近代柔術のことである。
  始まったばかりの日本の近代柔術史において、とてつもなく大きな礎を、今、中井は築 こうとしているのである。
  ハワイまで、中井祐樹の試合を見にゆくというのは、この生まれつつある歴史を現場で 見るということなのである。
  ハワイに着いてみたら、中井の他にも、なんと四人の日本人柔術家が、このパンアメリ カントーナメントに出場しているのがわかった。その中には、漫画家のはなくまゆうさく 氏もいる。
  日本から応援に駆けつけたのは、ぼくと双葉社編集者二名。漫画『コンデ・コマ』の作 者のひとりである藤原さんと編集者。そして、カメラマンの長尾さんである。
  会場には、ヒクソン・グレイシー、カルロス・グレイシー・ジュニア、ヘウソン・グレ イシー、ジョン・ルイス、マチャド兄弟、ハクソン、イーゲン井上、エンセン井上、そし て佐藤ルミナもいた。
  日本の格闘技専門誌の記者もいる。知ってる顔ばかりであり、ハワイにいるという気が しない。
  中井が出場する茶帯アダルト・フェザー級(66・9キロ以下)のクラスにエントリー する選手がいなかったため、上のクラスの選手がかわりに出場してきた。当然ながら、中 井よりも体重が一階級上である。
  この相手、フェルナンド・ロペス(ブラジルのゴドーイ&マカコ道場)に、中井は勝っ てのけたのである。
  すでに幾つかの専門誌で記事になっているように、三分二十一秒、送り襟絞めで中井が 一本勝ちをした。
  あぶなげのない勝利であり、一本取るまでのポイントも、中井が圧倒的にとっており、 しかも上のクラスの選手に勝ったということで、中井の実力はすでに黒帯と考えていい。
  試合当日、イーゲン井上選手の出場をめぐってトラブルがあり、結局、イーゲンの試合 は中止となった。
  この件については、ヘウソン側の、イーゲンに対するいやがらせ(イーゲンの衣の袖が せまいとクレームをつけた)に原因があると、ぼくは考えている。
  ブラジリアン柔術を取材してゆくおりに、時おりぶつかるのは、ブラジル人の妙なねち っこさである。
  (1)前田光世は、柔術のシークレットをブラジル人に教えてしまったので、日本の柔術関 係者に殺されたのではないかと言った、ブラジリアン柔術関係者がいること。
  (2)エリオ・グレイシーが、木村に日本へ来ないかと誘われたとき、「自分は日本人をたく さん倒しているので、日本人に恨まれており、行ったら殺されてしまうのではないか」と言 って断ったこと。
  (3)日本人の他競技の格闘家に柔術を教えないこと。ある日本人選手が、ロスのマチャド 道場で練習することが内定していたのが、ある柔術関係者のクレームで、だめになってい る。
  このようなことに、何度も出会っている。
  仲間にはフレンドリーで、敵には徹底的に嫌がらせをする――こういった体質があるの ではないか。 (1)や(2)についていえば、自分たちならやると考えているからこその発言ではないかと思う のである。
  このようなブラジル文化の中で、中井は勝ちあがってゆこうとしているのだ。
  近いうちに、中井は黒帯を締めることになるだろうと、ここに予言をしておきたい。

 

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