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《第二十七回》トルコ交信曲(前編) |
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かつて、日本にはトルコ風呂なるものがあった。
読者の中には、このトルコ風呂のお世話になった方もおられるかもしれない。身の上相談ではなく、身の下相談の専門で、ありとあらゆるSEXサービスをしてくれるところであった。このトルコ風呂が発信元となったSEXサービスや用語も多くある。
元バイオレンスとエロスの巨匠としては、だらしがないのだが、ぼくはこの方面にはあまり詳しくはない。つまり、正確ではない可能性もあるのだが、“泡踊り”、“潜望鏡”、“スケベ椅子”などというテクニックというか、技術というか、そのようなサービス名は、このトルコ風呂から出てきた風俗用語のはずである。
現在、このトルコ風呂は、改名されてソープランドと呼ばれている。
なんとなれば、実際のトルコ風呂と、日本のトルコ風呂とはおおいにかけはなれたものであり、トルコという国のイメージが損なわれるので、このネーミングをなんとかせよとトルコ側からクレームがついたためである。
これに日本側がこたえて、ソープランドになった。
これが、一九八四年のことである。
しかし、不思議だったのは、トルコ風呂がある時から急にソープランドというネーミングで統一されてしまったことである。
このような業界に、たとえば“日本トルコ風呂協会”であるとか、“全日本トルコ風呂協会”などというものがあったのかどうか。
おそらく、あったのだろう。
でないと、どうしてソープランドというネーミングで統一されたかどうか不思議ではないか。まさか、お上が、
「○月○日より、トルコ風呂はソープランドとするように」
などと通達するわけもないからだ。
しかし、その時仮にトルコ風呂協会のようなものがあったとしても、これは非合法のサービスをするところであるから、国の認知団体というわけにもいかないだろうし、それにどこかのホテルの会議室や、地方の公の会議室などを借りて会議をする時にも、
「あの〜、日本トルコ風呂協会の者ですが、○月○日に部屋をひとつ貸していただけませんかー」
と電話をするというのも、ちょっとなあ、というところがあったのではないか。
ま、組織名について言えば、
“仲良し温泉協会”
であるとか、
“日本全国湯うとピア協会”
などという、名前でやっていたのだろう。
それはともかくとして、彼らの団結力というのはどのくらいのものであったのか。
このような商売をやっている企業というのは、裏へまわればその筋のコワい――つまりジャパニーズマフィアであるといったようなことがあると思うのである。
それから、カタギの人たちが経営(非合法のSEXのサービスを金をもらってやっておいて――つまり売春をやっておいてカタギも何もないと思うのだが)する“お風呂”もあったと思うのである。
中には、抗争中の組織が経営している“お風呂”もあったのではないか。
その人たちが集まって、
「それで、この次のネーミングのことなんだけどさあ、いったいどうしたらいいのかなあ」
「電通ですよ、デンツー。デンツーに頼んで、ネーミングからアドバタイジングまでみんなまかせてやればいいんですよ」
「あ、イトイさんどうですかイトイさん。あのイトイさん、こういうののネーミングセンスってあると思いますよ」
「しかし、誰が銭を出すんだ、誰が――」
などという話し合いをしたのだろうか。
さらに言えば、このソープランドという名前をつけたの、いったい誰だ。
ネーミングで対立などはなかったのだろうか。
「ばかやろう、そんな名前でやってられるかい。うちはどうしても“欲情浴場”だあ」
などと言う人間もおれば、
「兄き、いつもすっきり“好っきりくん”でいきやしょうぜ」
などという若い者も――いるわけはないか。
しかし、それにしても、ソープランドと名前が決まった時には、
「なんだ、それ」
などと、ちょっと笑ってしまうようなところもあったのだが、いつの間にか定着してみれば、これはこれでよいネーミングであったような気もするのである。
このネーミングでは、マスコミでも様々にアイデアが出て、“ルンルン風呂”、“夢風呂”などという名前もあったらしい。『ゲンダイ』では今も“ルンルン風呂”を使用しているらしいが(ソープ嬢のことをミスルンルンというらしい)、ちょっとセンス悪いんじゃないの。
そもそもこの改名、日本に来ていたあるトルコ人の青年が、トルコ風呂の実態に気がついて、ある新聞に投書をして、このような運動をしたのがきっかけらしい。
この青年、今でも、世界を転々として逃げまわっているという噂がある。
「ジャパニーズマフィアに生命をねらわれているんだよ」
ということらしいのだが、なるほど、トルコ風呂をソープランドにするには、店の看板からパンフレットから、名刺、マッチのような小物に到るまで、何から何まで作りなおさなければいけないわけで、かなり費用がかかったことであろう。
しかし、生命までねらわれたりはしないと思うんだけどなあ(この青年、名前をサンジャクリ氏と言って、今ではカーペット工場などを経営しているらしい)。
だが、この青年の怒りもぼくにはよくわかる。それは、実際にトルコでこのトルコ風呂にぼくは入ったからであり、それは当然ながら日本のトルコ風呂とはまったく別ものである。
トルコでは、これはハマムと呼ばれている。
多くは大衆浴場であり、日本で言うならば銭湯に近い。
一千年以上の歴史のある風呂であり、形式で言うなら蒸し風呂に近い。
床下から、大理石の床を温め、そこで汗をかき、温まる。風呂の隅には水場があり、その水をかぶったり、その水で身体を洗ったりする。湯船のようなものがあるケースも、無いケースもあった。お金を払えば垢すり人がやってきて身体中の垢をこすりとってくれるのである。
たぶん、この垢すり人のサービスが、日本に入ってきて、女性が男性にするサービスへと発展してゆき、“トルコ風呂”というものになってしまったのではないか。
ごくごく、健全なるシステムの風呂であり、女性たちにとっては井戸端会議の場所であったり、男たちにとっては、世間話や時には政治論などを闘わせる場所でもあった。
一種の社交場でもあったのである。
前置きが長くなってしまったが、このトルコに行ってきたのである。
小説の取材である。
この夏頃から『中央公論』で連載が始まることになっている『ミマール・シナン』について、あれこれと調べに行ってきたのである。
ミマール・シナンとは、人の名前である。
ミマールは建築家という言葉であり、シナンは名前である。
もともと、シナンには、ファミリーネームはない。ファーストネームだけである。ファミリーネームをつける時には、父親の名前であるとか、職業名をそのかわりにする。
つまり、シナンは建築家であった。
オスマントルコの時代の一四八八年に生まれた人物であり、生涯に数百のイスラム寺院や橋、ハマムなどを建てている。
同時代人に、イタリアのミケランジェロがおり、どちらも石の巨匠である。
青春の巨匠は森田健作だが、石の巨匠はこの二名である。
おそらく、この両名、トルコとイタリアと国は別であったが、お互いに名前くらいは知っていたと思われる。
一方は、石を刻んで石の内部から何かを掘りおこす人間であり、一方は石そのものを積み上げて何かを作り出す人間であった。
これが、おもしろい。
シナンはイタリアなどにも出かけており、このふたりが出会っている可能性もある。
シナンは百歳まで生きた。
思う存分に仕事をしまくり、人生のあらゆるものをまっとうした。
ぼくは、シナンを書くことによって、『神々の山嶺』の羽生丈二のさらに向こう側の話を書きたいのである。
というところで、トルコの道中記は以下次号である。
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