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お気楽派

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●《第三十回》アブダビコンバットに行ってきたぞ その1
●《第二十九回》困ったものである 
●《第二十八回》トルコ交信曲(後編) 
●《第二十七回》トルコ交信曲(前編) 
●《第二十六回》K‐1を観にゆき 世界平和について 考えている 
●《第二十五回》演出の魔術 
●《第二十四回》雅楽からシュートボクシング 
●《第二十三回》北国行感傷旅行 
●《第二十二回》今、万札を燃やしているのです 
●《第二十一回》このお金、原稿料からひいて下さい 
●《第二十回》玉三郎、天野喜孝と土をいぢって遊んだぞ 
●《第十九回》ビッグ・サーモンはおれのものだ 
●《第十八回》玉三郎、パンクラスどちらも必見だぜ! 
●《第十七回》鮎がおかしいぞ 
●《第十六回》 阿寒湖のアメマス釣り 
●《第十五回》 歌舞伎座から日本武道館まで 
●《第十四回》 出生率低下なるも北斗旗おもしろし 
●《第十三回》 陶芸にはまっとります 
●《第十二回》 おれは哀しいぞ 
●《第十一回》 北方謙三とワインを飲む 
●《第十回》 猪木引退の日に―― 
●《第九回》 最終小説 
●《第八回》 中井祐樹という格闘家(後編)
●《第七回》 中井祐樹という格闘家(前編)
●《第六回》 格闘技の現在形
●《第五回》 釣り助平軍団、ワカサギ隊
●《第四回》 心揺らしながらアルティメット
●《第三回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(後編)
●《第二回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(前編)
●《第一回》 ヒマラヤの屍体


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お気楽派

《第七回》 中井祐樹という格闘家(前編)

 まず、中井祐樹が、パレストラという格闘技道場をオープンしたことから書き始めたい。
パレストラの語源というのは、おおよそ次のようなものである。
  格闘技と跳躍種目のトレーニングはパレストラで行われた。前六世紀からローマ帝国の 末期まで、普通、どの市にも最低一つはパレストラがあった。
  個人の所有であることが多く、利用するには会員になる必要があった。練習の場所であ るばかりでなく、一種の社交場でもあった。現代人が友達と顔を合わせてゴルフやスカッ シュをするように、古代ギリシャ人はレスリングやボクシングを楽しみ、そのあとにゴシ ップに花を咲かせたり、知的な会話を楽しんだのであろう。プラトンによれば、ソクラテ スとアルキビアデスがこういうことをしているのを、よく見かけたということである。 『古代オリンピック』NKK出版
  ビギナーからプロ、子供から大人まで、様々な事情に合わせてクラスが開設されており、 柔術や修斗(シューティング)を学ぶことができる。
  道場主の中井祐樹がニュートラルな精神の持ち主であるので、今後、流派を越えて多く の人材がこの道場に集まってくることになるだろう。このパレストラは、総合系を学ぼう とする人たちにとっては、極めて入門しやすく、また、貴重な総合の発信基地となってゆ くであろう。
  中井祐樹について考える時、頭が下がるのは、その生き方である。
  一九九五年の四月に開催された“バーリ・トゥード・ジャパン・オープン”に出場した中 井は、ジェラルド・ゴルドーを破り、決勝に進出している。この時に、中井はゴルドーの 反則によって、眼を攻撃され、右眼を失明した。
  この失明は、当時たいへんな事件であった。
  一部関係者しか知らないこの失明事件は、長い間、ぼくらの間では秘密の事項とされて きた。
  当時はまだ、総合格闘技や、アルティメット、バーリ・トゥードについて、専門誌にお いてもかなり批判的な記事が掲載されていた頃であり、“総合”について、格闘技関係者で さえ、きちんと語れる人が少なかった。
  ホイス・グレイシーという、技術論の対象となる選手が出場した試合のビデオを見てい るにもかかわらず、 “ただのケンカである”
  と切って捨てていた時代である。
  バーリ・トゥード、アルティメットについては、確かに危険で野蛮な側面はあるにせよ、 技術論で語れる部分が多くあり、それにも増して、将来へ向けての大きな可能性があった にもかかわらず、これを否定しようとしていた人たちが、少なからずいたのである。
  こういう時期に、中井祐樹の失明のことが公になれば、せっかく生まれつつあった総合 へのムーブメントが、大きく後退するかもしれなかった。
  それは、関係者の望むところではなかったのである。何よりも、中井本人が、それをい やがったに違いない。
  たしかに、バーリ・トゥード・ジャパン・オープン等の試合においては、選手は打撃に よる失明の危険にさらされる。しかし、それは、決して、ボクシング以上のものではない。
  これは、はっきり書いておきたいのだが、中井祐樹の失明は、ルールの不備による事故 ではないのだ。ゴルドーの、故意の反則による事件であったのである。
  中井祐樹の失明事件は、中井本人や、総合への関係者の大きな愛情によって、ひそかに 隠され続けてきたのである。
  もし、これが公になる時があるのなら、これは当然ながら中井祐樹本人の口から語られ るべきものであった。
  そして、ようやく二年半後の一九九七年の十月に、失明事件のことは『格闘技通 信』の 一九〇号で語られることになるのである。
  アルティメットにしても、バーリ・トゥードにしても、競技として見られるものになっ てきており、ルールもきちんとしたものになってきた時期であった。
  かつて“日本最弱”と見出しに書いた『格通』が、中井祐樹のインタビューが掲載され た号に、大きく“日本最強”と書いていたのが印象的であった。
  このインタビューによって、中井祐樹の眼を反則攻撃したゴルドーも、中井の失明を知 ることになった。
  それはたいへん不幸なことである、と前おきしてから、ゴルドーは、次のように答えて いる。 “それでも、自分は、今後の試合で同様のケースがあれば、反則攻撃を眼に加えることに なるだろう”
  と。
  失明した中井祐樹は、リングから遠ざかり、いわゆる背広組と呼ばれる仕事もするよう になる。 「また、ジャケットを着て、柔術をやる生き方もあるのではないか」
  と、中井祐樹に言う者もいた。
  ぼくもそのひとりである。 「でも、自分は、一度はジャケットを脱いで、裸でやる打撃のある総合(シューティング) に移ってきた人間ですから、また、ジャケットを着るというのは、前に進むというよりは、 後退であるような気がして――」
  と中井祐樹は言った。
  総合の試合に、それでも中井祐樹は出場したがったが、出ろと言える者は誰もいない。 中井はどうなってしまうのかと、ぼくの周囲でもたくさんの人間が心配していたが、本人 以外に、誰も中井を救うことなどできるものではない。中井祐樹が、本格的に柔術に取り 組みはじめたのは、朝日vs.ホイラーあたりからである。
  中井祐樹が目指したのは、 “ブラジリアン柔術選手のトップクラスに、ブラジリアン柔術で勝つこと”
  である。
  これは、ある意味では、バーリ・トゥードで、ブラジリアン柔術のトップクラスに勝つ ことよりも過酷な道である。しかし、その過酷な道を中井は選び、前に進みはじめたので ある。
  右眼失明という負の事件を、中井祐樹は、みごとにプラスのベクトルにかえたのである。 ブラジリアン柔術は、打撃がないから、打撃による失明の危険はまずないといっていい。
  一九九六年のイーゲン井上戦を皮切りに、中井祐樹は、次々に世界で開催される柔術大 会に出場しはじめた。
  一九九六年十月のハワイ柔術大会、青帯の部、優勝。
  一九九七年三月のパンアメリカン選手権、紫帯の部、優勝。
  一九九七年六月、ジョー・モレイラ杯、紫帯の部、優勝。
  一九九七年七月、ブラジルで開催された世界選手権で、紫帯の部、三位。
  大きな苦しみの中から、ここまで中井祐樹は登ってきた。たいへんな精神力――という より、人間力と言わねばならない。
  この中井祐樹が、一九九八年の二月にハワイで開催される、パンアメリカンのトーナメ ント戦に、なんと茶帯で出場することが決まった時には、これはもう、なんとしてでも、 ハワイまで観にゆかねばならないと、ぼくは考えたのであった。

 

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