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《第十九回》ビッグ・サーモンはおれのものだ |
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これまでに、あちらこちらで何度も書いてきたことだが、この世に存在するうれしいことのかなり上位に、でかい魚を釣るというのがある。
でかい魚――それもアブラビレのある魚を釣るというのは、人生の極上の悦びのうちのひとつなのである。
“アブラビレ”というのは、背にあるヒレで、背ビレと尾ビレの間にある。どういう魚にもあるというものではない。たとえば、コイ、フナ、ハヤ、タナゴなどはこのアブラビレはない。
あるのは、アユ、マス、ヤマメ、イワナ、イトウ、オショロコマ、ワカサギ、レインボートラウト、サーモン――つまりぼくが釣りの対象としている魚たちである。海と川を行き来している、あるいは、かつて行き来していた魚が多い。
一緒に行った仲間が、小さいのをふたつかみっつくらいしかあげられないのに、このぼくだけが、その横ででかいのを、みっつ、よっつ、いつつと次々と釣り上げていくというのは無上の快感である。
この世の極楽なのである。
「わあ、またヒットだあ」
声がでてしまう。
「おっ、でかいぞう。でかいぞう。こりゃすごいひきだあっ!」
釣りながら、プロレスアナウンサーのごとき実況中継を自らしてしまうのである。
「おおっと、そうきたか。そうはいかねえぞ。これでどうだあ!」
まことに楽しい。
でかいのをネットインさせて、
「わはははは」
世界チャンピオン時代に無敵をほこったルー・テーズの全盛期の写真のように、両手を腰にあてて、胸を反らせてしまうのである。
こんなことは、めったにない。
一生のうちに、二度か三度もあればいい。
自分の友人が、ルー・テーズ状態になった時には、一生に二度か三度のうちの一度だと思い、許さねばならない。
では、人生において、最も哀しいできごとというのは何であろうか。
好きな女を、他の男に奪われてしまうことであろうか。心の底から惚れている女が、他の男に目の前でさらわれてゆくというのは、これまたかなり辛いものがある。
わかる。わかります。夢枕はそのことをよく理解しております。
しかし、この世には、もっと上位に属する哀しみというのが存在しているのであります。
それは、自分が一尾も釣れないのに、横にいる同行者が、次々にでかい魚を釣り上げてしまうことである。
「わ、やったァ。また、釣れたァ!」
「来た。こいつはでかいぞう」
「ほら、バクさん見て見て見て」
ぼくの知っている女釣り師はまわりが釣れているのに自分だけが釣れなくて、眼に涙を浮かべながら釣っていたという噂である。
ぼくは、その現場を見ていないのだが、その気持ちはよくわかる。しかも、これは人生においてたいへんに哀しいできごとなのである。
しかも、こういう不幸なことが実はよくあるのである。
不幸なことは他にもある。たとえば、フックして、目の前まで寄せてきたでかい魚が、水中でギラリと太い腹だけを見せて逃げてしまうことなどがそのひとつである。これにはもう、一瞬にして世界の全てが消失してしまったような喪失感がある。
そして、このような不幸な体験をした時間は、幸福な時間よりも明らかに中身が濃い。楽しいか楽しくないかは別にして、魚を釣りあげることよりは、魚が目の前で逃げてゆくことの方が、時間としては濃いのである。
ともかく――
と、ようやく本題に入るのだが、これまでこの私は何度か北海道の忠類川にサーモンを釣りに出かけているのだが、過去の二年間は、全てボーズであった。
一尾も釣れなかったのである。
フィッシングの徹人(てつじん)西山徹。
冒険ライダーの風間深志。
フライ・フィッシャーマンの俳優根津甚八。
歌って踊れないお調子者の作家夢枕獏。
主にこの四名で、忠類川に出かけてゆくのだが、他のみんなが釣れるというのに、このぼくだけがボーズ――つまりゼロ尾ということが二年も続いたのである。
普通の人間なら、
「やめたやめたア。サーモンなんか日本の川で釣ってどこがおもしろいんだよう」
と、イソップ物語のキツネのごとき捨て台詞を残してやめてしまうのだが、あいにくとぼくは、このブドウが――いや、この釣りがどれほどおもしろいかをよく知っているのである。しかも根っから釣り助平であり、はっきり言えば、行っているわりには釣りがあまり上手ではないので、このような体験は何度もしているのである。
へこたれない。
そして、三年目の今年もまた、北海道忠類川のサーモン釣りにチャレンジしたのである。
近年、北海道のあちこちの川で、鮭――つまりサーモン釣りがオープンになろうとしている(かつては禁止であった)が、その先鞭をつけたのが標津町を流れている忠類川である。
水好し、風景好し。
ゆけば、アラスカを流れている川にいる気分になる。
風間さん、根津さんと羽田で待ち合わせ、北海道で西山さんと合流をした。
八月三〇日。
日本中が大雨の時で、北海道も例外ではなく、忠類川も増水している。
やっと、なんとか川に入ることができたのは、九月一日である。
ロッドはフライロッドの9番。
シンキングラインを使って、川の底に毛鉤を沈めて、これを流す。
すでに、カラフトマスは大量に川に入っており、これが体長四十五センチから六〇センチくらい。
このカラフトマスはもう、八月の頭から産卵のために川にのぼってくる。
日本では白ジャケと呼ばれている、チャム(アラスカでいうドッグ・サーモン)がのぼってくるのが八月の終り頃である。
このチャムが今回のねらいである。
三年目にして、ようやくこの川にも慣れ、この魚の釣り方も多少はわかってきた。
わかってきたとはいえ、フライは初心者であり、サーモンフライを巻くことができないぼくは、西山さんから、忠類川用のフライを何本かいただいて、川に入ったのである。
九月一日は、案内してくれた藤本さんに、よい場所に入れてもらい、まずカラフトマスを二尾、釣りあげた。
チャムよりは小型とはいえ、体長五〇センチ。これがやはりぐいぐいとひくのでおもしろい。海からあがってきたばかりの銀ぴかのやつである。
そして、二日目に、なんと、このぼくはチャムを二尾も釣りあげてしまったのであった。
カラフトマスと違って、チャムは流速のある流芯にいる。
チャムを専門にねらって、糸を切られること三度。ようやく、四度目と、五度目のヒットをものにしたのである。
一尾目をあげた時には、心臓がパンクしそうになった。
獣をかけたような強いひきであり、魚の動きにあわせて10分近くも河原を走りまわる。
なんとか浅瀬に引き寄せてようやくキャッチ。
これまでの三年間のあれもこれも、全て許そうという気になった。
あの逃げていったあの女の子、この女の子――じゃなかった、あの魚もこの魚もみんな許してあげよう――でかい魚を釣りあげた後はこのようなしみじみとした放心状態が、人には訪れるのである。
今日の一日はこれで終わった。
もう釣らなくていい。
「今日はも悟りのユメマクラです」
などと言っていたのだが、10分もしないうちに、
「まだ時間ある?
なら、もう少し釣っちゃおうかな」
などと、助平心を出し、またもや竿を振りはじめて、
「ま、また釣れちゃった」
二尾目も釣ってしまった、イケナイわたしなのであった。
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