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お気楽派

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●《第三十回》アブダビコンバットに行ってきたぞ その1
●《第二十九回》困ったものである 
●《第二十八回》トルコ交信曲(後編) 
●《第二十七回》トルコ交信曲(前編) 
●《第二十六回》K‐1を観にゆき 世界平和について 考えている 
●《第二十五回》演出の魔術 
●《第二十四回》雅楽からシュートボクシング 
●《第二十三回》北国行感傷旅行 
●《第二十二回》今、万札を燃やしているのです 
●《第二十一回》このお金、原稿料からひいて下さい 
●《第二十回》玉三郎、天野喜孝と土をいぢって遊んだぞ 
●《第十九回》ビッグ・サーモンはおれのものだ 
●《第十八回》玉三郎、パンクラスどちらも必見だぜ! 
●《第十七回》鮎がおかしいぞ 
●《第十六回》 阿寒湖のアメマス釣り 
●《第十五回》 歌舞伎座から日本武道館まで 
●《第十四回》 出生率低下なるも北斗旗おもしろし 
●《第十三回》 陶芸にはまっとります 
●《第十二回》 おれは哀しいぞ 
●《第十一回》 北方謙三とワインを飲む 
●《第十回》 猪木引退の日に―― 
●《第九回》 最終小説 
●《第八回》 中井祐樹という格闘家(後編)
●《第七回》 中井祐樹という格闘家(前編)
●《第六回》 格闘技の現在形
●《第五回》 釣り助平軍団、ワカサギ隊
●《第四回》 心揺らしながらアルティメット
●《第三回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(後編)
●《第二回》 私、四十六歳。おしっこちびりました。(前編)
●《第一回》 ヒマラヤの屍体


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お気楽派

《第二十四回》雅楽からシュートボクシング

 先日、国立劇場小劇場へ行ってきた。
 第四十五回の雅楽公演があり、友人の中沢新一さん、岡野玲子さんがこれに出場――じゃなかった、出演したのである。出演といっても、おふたりは、演奏するのではなく、奏者たちが演奏する前に、雅楽家の東儀兼彦さんと鼎談をするためにこの日の舞台に立ったのである。
 中沢さんは宗教学者であり、世界や社会のもろもろの現象や、文化に対する万能選手であり、なかなかぼくにとってはありがたい方なのである。
 ぼくの場合、世の中のむつかしい現象などを理解する時に、“中沢言語”によってかなり助けられている。ぼくには理解不能の現象について、中沢さんが中沢新一言語で語るのを聴いて、 「ああ、なるほどそれはそういうことであったのか」
 初めて理解(あるいは誤解)できたことがよくあるのである。
 それは“グノーシス”というものであったり、“仏教”というものであったり、“才能と音楽”というものであったり、また時にはそれが“愛”であったりするのである。
 具体的に書いておけば、かつて中沢さんが言った、 “哲学の東北”
 という概念にはびっくりした。
 日本という国にとって、東北というのは特殊な方位である。風水的には、鬼門の方角であり、鬼のいる方向である。
 大和王朝にとっては、えびすなどと呼ばれた、未開の野蛮人の住む土地であり、まつろわぬ神々の土地である。この東北を、大和王朝が征服していた歴史が、ある時期の日本の歴史であったといってもいい。
 つまり、日本という文化にとって、東北は制御しきれない妖しいパワーを持っている土地というスタンスがあるのである。
 このような、“日本文化と東北”といったような関係が、あらゆる文化や思想の中にも存在するのではないかと中沢新一は発想するのである。
 つまり、哲学の中にも東北的なものがあるのではないか、と。
 これが“哲学の東北”である。
 今回は久しぶりに生の中沢新一の言葉を耳にするよい機会であり、終ったあとは飲みに行って、おこぼれにあずかろうという気持ちもあったのである。
 一方の岡野玲子は、漫画家であり、ぼくの小説『陰陽師』を漫画化していただいている異才の美女である。
 この仕事(『陰陽師』)のために、彼女は平安時代の楽器をならい始め、なんと今では龍笛を吹き、鼓を叩き、和琴を弾いたりするようになってしまったのである。
 これが、つまりは今回ぼくが国立小劇場まで出かけていった理由なのだが、実は本日の本題は、当日、三人の話が終ってからのことなのである。 「西洋の楽器では人は殺せないけど、日本の楽器、龍笛なんかだったら人を殺せますよ」
 などという、岡野玲子の心あたたまるすてきな発言などもあった三人の話が終って、いよいよ演奏が始まったのだが、これがとてつもないものであった。
 最初の演目「喜春楽」の序で、ぼくはふっ飛んでしまったのである。
 まず、楽器がある。
 鞨鼓、一名。
 太鼓、一名。
 鉦鼓、一名。
 琵琶、二名。
 筝、二名。
 笙、三名。
 篳篥、三名。
 笛、 三名。
 これらの楽器によってこの曲は演奏されるのだが、全ての楽器が一度に音を出すのではない。
 笙、篳篥、龍笛の順で、ゆっくりと奏される楽器の数が増えてゆくのである。
 まず、笙がゆるやかに始まる。
 この音がこの世に現われた瞬間に、ぼくはこの音に捕えられてしまったのである。
 この楽器は、共鳴部分のパイプ状のものが束になっていて、しかも、垂直に上に向かってこれが立っているのである。
 そこから生じた音が、天に向かって立ち昇ってゆくのである。この音の色彩、その上昇してゆく速度までがまざまざと見えてしまうのである。
 これに、篳篥が重なってゆく時には、ぞくぞくとして鳥肌が立った。まさしくこれは春である。リズムというよりは、これは瞑想時の呼吸である。音がからみあって、舞台全体が、絢爛として輝き出す。悲鳴のごとくに音が高まってゆくのに表現されているのは静けさである。届いてくるのは春である。春の風景であるとか、温度とかいった物質的なものではなく、純粋な春そのものがきらきらした結晶のようになって、あとからあとから無限に注いでくるようなのである。
 龍笛が重なり、全ての音が揃った瞬間、ぼくのイメージの中に、ぱあっと出現したのは、満開の桜である。一本の樹でもなく、桜の樹の群でもない。純粋な桜。宇宙の全てが、満開の桜となって、
 ざわっ、
 と風に揺れる光景が、動きではなくイメージそのものとして眼前に現出したのである。
 このとてつもないイメージをどうやって書いてよいかわからない。
 この“ざわっ”というのは、ただの一度だけである。この瞬間の後は、ただただ、満開の桜が、音もなく静かに揺れ続けているのである。
 そして、ゆっくりと、ひとつずつ音を出す楽器が減ってゆき、全ての音が消え去ったあとに、余韻だけが、心の中でいつまでもここちよいリズムで揺れ続けているという、その晩ぼくが体験したのはそのようなものであったのである。
 いやいや、驚きました。
 というところで、これが十一月の十三日。
 その翌日がなんと、日本武道館でありました。シュートボクシング協会主催の「GROUNDER
 TOKYO」へ行ってきたのである。
 雅楽から一転して格闘技。極端から極端への移動だが、これもまたおもしろい。
 この日、際立っていたのが、全日本キックの土屋ジョーと闘った、ムエタイのランバー・ソムデートM16である。強い強い。
 決して、コンディションが悪そうには見えないあの土屋ジョーを、一ラウンドの初っぱなから、ハイテンション、ハイスパートで攻めまくった。名前のM16は、ゴルゴ13の使用する銃の名前であったか?
 ランバー、一ラウンドで土屋ジョーをKOしてしまったのである。
 この日のメイン“おかまキック・ボクサー”のパリンヤーと女子プロレスラー井上京子の試合は、パリンヤー有利の、シュート・ボクシングに近いルールで行なわれた。
 常に前に出てゆこうとする井上京子は立派であったが、こういうかたちの試合は組むべきではないような気がする。
 パリンヤーはれっきとした男であり、ムエタイの選手である。いくら体重が重いからといっても、井上京子は女である。
 格闘技の試合で、男対女はやるべきではないと思うし、やるのなら、同じ競技者どうしでやるか、もっとフェアなルールにした方がいいのではないかと思う。
 TKOで、パリンヤーの勝ち。
 このルールでは、当然の結果であろう。


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